本日のテーマは「人格・良心の押し付け」についてのお話です。
本ブログのコンセプトとして「自己実現・他者貢献」を標榜していますが、これは言葉を言い換えれば「人格や良心を身に着けよう」とも捉えることが出来ます。他人と比較して勝つためにではなく、自分が成長することの喜び噛みしめる。承認を求めるだけの対人関係ではなく、主観的貢献感を持って相手にGIVEをする。これらが私の定義する「人格・良心」です。
標榜したゴールに向かうことを推奨しているわけですが、ゴールとなる「人格・良心が押し付け」とは一体どういうことなのでしょうか?
本章では、3枠にわけてお話を展開していきます。
1つの主観
人格・良心の押し付け1枠目は「1つの主観」です。
この世には無数の主観が存在します。そして人格・良心も、数多くのレパートリーの「1つの主観」でしかないのです。客観力を広く発動すれば、人格・良心も1つの主観であることに見えてきます。
逆に言えば、他人と競って相手を打ち負かすことも、目先の快楽を求めて生きることも、相手から奪って陥れることも、それぞれ1つの主観なのです。その人にはその人なりの正義があり、自分を大切にするという正しさなのです。
全てへの受容
人格・良心の押し付け2枠目は「全てへの受容」です。
私が思い描く人格・良心には、もう1つ重要なピースが存在します。それは「全てへの受容」というピースです。相反する上記の価値観に対して、人格・良心を押し付けることは「彼らの正義を否定する」こと。これが本当の人格・良心なのでしょうか?
正しく世界を俯瞰すれば、あくまで自分は「人格・良心の主観」への滞在を決めている。この世には「競争・瞬間的快楽・利己的な主観」の滞在を決めている人もいる。これらに上下・善悪もなく、それらは全て人が作ったストーリーでしかない。相反する価値観の人にも彼らの物語があり、お互いの違いから嫌悪・強制などが湧き上がったとしても、マインドフルネスで分離して受容することを心掛けています。それが私が考える人格・良心だと思うので。
もう少し深堀りすると、異論の価値観に対して嫌悪・強制を表出する価値観も存在します。「それは嫌い」・「それは間違っている」などと断言する人のことですね。受容という視点から見れば、嫌悪・強制の価値観は間違いなものです。ただ嫌悪・強制という視点から見れば、自己防衛による1つの正しさということになるでしょう。
その場合の対策方法は、まず相手の価値観を受容して聞き、私の価値観と違うことを認識します。そして自分の価値観も、素直に角が立たないように伝える。それでも嫌悪・強制のコミュニケーションを辞めない人とは、お互いが傷つけ合わないように離れるのです。「過去の思い出」・「彼の中の良さ」に惑わされず、今の自分には縁がない人なのだなと見極める。
価値観に上下・善悪がなかったとしても、違う価値観との慢性的交錯は嫌悪・強制しか本能的に生まれない。少しシビアに見えるかもしれませんが、人格・良心というアイデンティティを守るための1つの正義だと私は思っています。
自己啓発書の罠
人格・良心の押し付け3枠目は「自己啓発書の罠」です。
自己啓発書を読むと、人格・良心を推奨する意見やその手順などが述べられています。これらを知ることは素晴らしいことですが、自己啓発書には罠も存在するのです。それこれが「人格・良心の押し付け」という罠なのです。善人になりたくて自己啓発書を開いたのに、悪人への攻撃性が上がっては本末転倒ですよね。実用書でもそうですが、自分がキッチリ出来るようになると、出来ない相手に嫌悪の感情を抱くのは人間の本能です。
この本能の原因は「価値観の刷新」です。書籍の内容をこなすための価値観に自分が変化して、周りの人たちが過去の自分の価値観に滞在している。そして違う価値観の人を、本能が敵だと認識して「嫌悪・強制」の気持ちが溢れかえってくるのです。もちろん客観力をつければ対応可能ですが、自己啓発書は実用書よりも客観力の難易度が少し上がるようです。
なぜなら「迎合・怠惰」を正当化する文化はあっても、「嫌悪・攻撃」を正当化する文化があまり存在しないから。「怠惰ならしょうがないよね」と言えても「人を陥れることはしょうがないよね」と、マジョリティは認識してくれません。そして「人格・良心の絶対的信奉」へ進み、相手に押し付けてしまうのです。つまりもう1段階、客観力の空間を広げていく必要性があるということですね。
最後に
本日は「人格・良心の押し付け」のお話、いかがでしたか?
人格・良心も1つの主観であると認識したり、全てへ受容するという営みは生半可な意識で果たすことが出来ません。日頃から、自分自身も色眼鏡をかけているという事実に気づく。そして本当の意味での人格・良心の色眼鏡を構築していきましょう。
本日はご精読ありがとうございました。
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