本日のテーマは「車椅子・難病の人の幸福度」というお話です。
私たちは健常者であることを、当たり前のように感じて生きている人が多いでしょう。しかし健康という事象は当たり前ではなく、とっても有り難いことなのですね。
そして健常者よりも、車椅子生活や難病を患った人の方が割合的に主観的幸福感が高い傾向にあるというから驚きです。では一体なぜ車椅子・難病などを経験した人たちは、健常者よりもポジティブで幸せな世界を感じ取ることができるのでしょうか。
本章では「車椅子・難病の人の幸福度」を2部構成で展開していきます。
幸福とは物語
車椅子・難病の人の幸福度1部目は「幸福とは物語」というお話です。
①物語とは主観
物語とは、私たちが描いている主観のことです。
この物語の存在意義としては、無秩序で正解のない世界での道標の役割を果たしています。もし進む方向性が分からなければ、どう生きたらよいのか困惑して苦しみを抱いてしまいますよね。
②他人任せの物語
しかしマジョリティは、この主観という物語を他人任せで決めてもらっている人ばかりです。
なぜなら自分の頭で考える営みは、時間や労力を多く消費する大変な作業だから。人間はできれば、楽して生きたいと思ってしまいますよね。他人任せにして、幸せになれる物語を提供して貰えるのであれば、それも良い選択肢でしょう。
ですが世間体は、大多数の人間が共存するための物語です。違う価値観を抱いた人がいても、同調圧力により淘汰されるでしょう。
また資本主義も、経済を回して人口を増やしていくための価値観です。人口が増えることと、個人1人1人の幸福度が上がることは比例するものではないのです。
③健常者は当たり前という物語
そして車椅子や難病などで、1度健康という当たり前を失った経験がある方はどうでしょうか。
彼らは「健常者が当たり前」や「病気を患った人は可愛そう」という偏見を、1つの物語であることに気づきます。つまり客観力が増すのですね。この客観力向上が、幸福度に大きな影響を与えます。
感謝と自由
車椅子・難病の人の幸福度2部目は「感謝と自由」です。
彼らは1度、今まで当たり前にあると思っていたもの失う経験をしています。つまり当たり前と認識しているもの全て虚構で、この世界のどこを探しても当たり前などないことを知るのですね。
①恩恵に気づく
当たり前がないと分かれば、自分に与えられている様々な恩恵に気づくことが可能です。
今、この瞬間の痛さ・吐き気などを感じていないことにも感謝の念が浮かんでくる。そして現代社会では、多くのGiveをたくさんの人から得ているというファクトにも気づける。長い歴史というマクロの視点で見れば、私たちはすごく幸せな環境下で生きています。
②ネガティブ感情の正体
ですが人間はプラスの恩恵に気づけず、マイナス面ばかりを見て愚痴をこぼす。
このネガティブ感情の正体は、まさに「当たり前の認識」からきているのです。もし仮に「ありがたいと認識」していれば、同じ事象でも主観的幸福感は全く異なるモノになるでしょう。
③命は有限
また当たり前を失う経験は、命が有限であることも気付かされます。
すると有限な時間なのだから、他人の価値観や評価に振り回されず、自分の価値観を描いて自分で評価してあげようと感じる。まさに1分1秒たりとも、他人の物語に自分を捧げる時間などないことを知るのですね。
そして今ある当たり前も消えるものと認識すれば、執着の心が消えていきます。だからこそ今、目の前にある喜びの時間を、健常者よりも身軽に全力で楽しんで生きられる。これこそがまさに真の自由ではないでしょうか。
最後に
本日は「車椅子・難病の人の幸福度」というお話、いかがでしたか?
私自身、過去に1度大きな病気を患った経験があります。当時は健康自体を当たり前と認識しており、不公平だと苦しみを感じた時期もありました。
ですがこの出来事は、私にとって幸せなマインドのきっかけになったのです。具体的には執着せずに感謝するマインドが手に入り、自分軸で生きようという決意が固まりました。そして今では寛解状態にも戻り、幸せなマインドだけ病気から頂けたと思っています。
当たり前を失う経験なしに、パラダイムシフトは難しいかもしれません。ですが是非、イメージの力で幸せなマインドを手にしてみてくださいね。
本日はご精読ありがとうございました。
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