本日のテーマは「分かるとは」というお話です。
私たちは何か分からないことがあると勉強して、分かる状態の自分へとアップグレードを試みます。ではここで1つ質問です。皆さんは「分かる」という言葉の意味合いを、どこの地点のイメージを持っているでしょうか?
本章では「分かる」という言葉を、深堀りして考えていこうと思います。
分かるの勘違い
まずは「分かるの勘違い」についてのお話です。
①分かる認識が早い
多くの人は、まだ実際に自分は分かっていないのに、早い段階で分かっていると勘違いします。
少なくとも、私の目にはそう映ります。なぜそう感じたのかと言うと「どうせ同じようなことが書いてあるから1冊でいいや」・「要約のまとめサイトや動画で十分だよね」という声が多く聞こえてくるからです。ですがこの状態は、本当に分かった状態なのでしょうか?
②深堀り質問に答えられない
彼らに「なぜ?」、「どのように?」と試しに聞いてみました。すると早い段階で言葉に詰まり、何も言えなくなってしまうのです。また自分が話していた内容と違う行動をしていた時に、突っ込んでみても同じように言葉が詰まるでしょう。
これらの原因は彼らが1度見聞きしたら、もう分かったものだと勘違いしているから。また結論部分さえ聞けば、全てを分かっていると錯覚してしまうからです。では分かるという状態に達するためには、どのようなアクションをとるべきなのでしょうか?
知識・行動の積み重ね
その具体的アクションとは「知識・行動の積み重ね」の先にあります。
①少しずつ理解へ
まず知識を見聞きして、そして行動してみる。
しかし、いきなり記載されている通りに行動に移せるわけではありませんよね。上手くいかないから、またそれと関連する書籍で勉強する。すると同じようなことを言っているのに、違う視点や言葉から書かれた知識に自分の理解は高いものへと昇っていく。そしてまた行動してみると、前よりも上手くアウトプットできるようになっていたりするものです。
②スポーツと同じ
分かるという状態を目指すことは、この繰り返しです。
たった1度見聞きしただけ、まとめサイトや動画の要点を覗いただけで、到達できる場所ではないのですね。
ここでは勉強と考えずに、スポーツの意識を持ってみてください。同じことを何度もコーチから聞かされますし、反復練習はマメが潰れるほど行いますよね。これはスポーツに限ったことではなく、この世の全ての事象を分かろうとした時には、同じSTEPを踏むものです。
つまり1度の見聞きで分かったと錯覚するのは、体験教室のスポーツクラブで自分は極めたと勘違いすること。この事象と全く同じということですね。
終わりがない
最後に、分かることは「終わりがない」というお話です。
知識・行動の積み重ねにより、どんどん分かっている状態に近づくことは確かです。マジョリティと相対的に比べても、平均よりは理解度も高い状態に達するでしょう。
①深く広い知識たち
ですが勉強・行動には、本当の意味での終わりはありません。
1つの知識の深さは限りなく深く、何より無数の知識たちがこの世には存在します。この事実を目の当たりにすれば、自分は「分かっているよ」と口が裂けても言えなくなるでしょう。安易に分かっているよと口をするのは、勉強を放棄して向き合っていない証とも言えるのですね。
②ソクラテス「無知の知」
紀元前6~5世紀・古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「無知の知」という言葉を残しています。
無知の知の意味とは、自分に知識がないことに気づいたものは、それに気づかないものよりも賢いという意味を持っています。
つまり無知の自覚こそが、分かっている状態に近づくために必要ということ。そしてソクラテス程、知見を深めた人であっても無知だと自覚している。歴史的な哲学者も科学者も、絶対に私は分かっていると傲慢に主張はしません。分かっているよと言葉を発するのは、青二才のブランドのようなものかもしれませんね。
最後に
本日は「分かるとは」というお話、いかがでしたか?
分かるという勘違いは、自己成長を阻害します。そして無知である程に、悪意のない凶器を振りかざし、自分でも知らぬ前に他人を否定して攻撃してしまう。人に迷惑をかけないためにも、学びの楽しさやこの世の深さを知るためにも、是非学びを習慣にしていきましょう。
そして学びの第一歩が「分かるという勘違い」を脱却することです。広い客観力を描いて、無知を認めるところから始めてみてください。
本日はご精読ありがとうございました。
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