絶対的正義に陥りやすいモノ・Part2

客観力

 本日のテーマは「絶対的正義に陥りやすいモノ・Part2」というお話です。

 絶対的正義という勘違いの思想は、その物語の作成者に搾取・操作されてしまう可能性を生んでしまいます。またその物語から外れた人間に対して「悪・敵」という主観を持ち、自他共に傷つけてしまう懸念もあるのですね。

 前章と本章では「絶対的正義に陥りやすいモノ」という話題に焦点を当てて、お話を進めさせて頂いています。合計4つの陥りやすいモノの中から、本章では後半2つのご紹介です。少しでも多くの方の、客観力向上の一助になれれば嬉しいです。

無宗教

 絶対的正義に陥りやすいモノ3つ目は「無宗教」です。

①無宗教も主観

 現代日本の考えとして、多くの方が無宗教だと思います。

 私も無宗教の主観に滞在しており、神や仏などは人が作ったコモンセンスでしかないとも思っています。ですがその無宗教でさえも、1つの主観であるのですね。

 無宗教の人の中には「宗教の信奉者は洗脳されている」と感じている方もおられます。ですがこの言葉を投げる彼らには、客観視できていないものがある。一体何でしょうか?

②主観の滞在

 それは「主観の滞在」を客観視できていないのです。

 人は生きていく上で、何らかの主観に滞在しなければ生きていけません。主観とは人生の指針であり、それがないと無秩序の世界の中で不安に押しつぶされてしまうからです。

 そして無宗教という主観は、神や仏は信じずに別のモノに信仰の対象が移っているだけでしょう。宗教に対して、自分自身の主観がないだけなのです。きっと心の中を深堀りしていけば「大多数の評価」・「お金」・「家族」など、別の信仰が見えてくる。

③客観力の低さ

 そして主観の滞在が見えない、客観力の低さは悲劇を生みます。

 それは自分の主観を絶対的正義だと勘違いして、他人の主観を「洗脳されている」と罵倒してしまう。正しく視野を広げられる人であれば、きっと相手は神や仏を主観として信じている。そして自分は、別のモノを主観として信じていると俯瞰する。高い客観力を持つ人は、洗脳だと罵倒することはないのですね。

客観的

 絶対的正義に陥りやすいモノ2つ目は「客観的」です。

 客観的とは、「私は客観的に物事を見ている」と感じる思想のこと。

①知識・経験からの推測

 実はこの思想ですら、最終的には主観の領域であり絶対的正義に陥りやすいモノです。

 なぜなら客観的と感じる意識は、自分が持っている知識や経験からの推測でしかないからです。この世の全てを知見し体験した人は、地球上に一人もいないはずですよね?また人類という枠組みで見ても、突き止められていない事象も多数あり、だからこそ科学は日々進歩している。

②客観的の見え方

 では知識・経験が少ない人と多い人がいたとして、その双方が客観的に物事を見ている意識を持っていたとしましょう。2人は同じようなモノの見方をしているでしょうか?きっと同じ客観的という主観でも、見え方は全く異なってくるはず。

 例えば常識の信奉者が客観的意識を持っていれば、そこから外れる人は異端児であり、頭が悪いか洗脳されていると判断するでしょう。しかし、常識も1つの主観という知識を持った人の客観力の精度は上がります。だからと言って、その人がこの世の全てのことを客観視出来ているわけではない。まだ彼にも、客観視するために必要な知識で知らないことは山程あるはずだから。

 これが自分のことは棚に上げて、あの人は主観的だからと客観的を正義に掲げてしまう原因なのですね。

③客観的に思われたい心

 そして多くの人が見落としがちの罠として「客観的に思われたい心」があります。

 客観的に物事を見ることは仕事や勉強に役立ち、知的なイメージを相手にも与えます。そのことから承認欲求が湧き、つい客観的な人間と思われたいという気持ちが浮かんでしまうのですね。そしてこの自分の心を客観視できていない。この状態は客観的ではないですよね?

 このように完璧な客観的な状態に辿り着けている人は、ほとんどいません。それこそ人生全ての時間を、瞑想修行に費やすくらいでなければ辿り着けない境地です。つまり客観的に物事を見るよというのも1つの主観ということですね。

最後に

 本日は「絶対的正義に陥りやすいモノ・Part2」というお話、いかがでしたか?

 日本人の多くは、無宗教や客観的という正義に陥りやすいと思います。そんな疑わないはずの根幹部分の思想から、なぜそうなのかを考えていきましょう。そして考えた先にあなたの客観力は研磨され、絶対的正義から抜け出すことができるはずだから。

 本日はご精読ありがとうございました。

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