認識について考える

問題解決

 本日のテーマは「認識について考える」というお話です。

 あなたは今この世界を感じ取っている自分の認識について、深く考えたことはあるでしょうか…?

 認識について思考することは自分自身を知る旅にもなりますし、目の前に立ちはだかる阻害な壁を乗り越える力にもなります。とどのつまり自由への架け橋とも言えて、過去への執着、未来の不安、周りの環境に振り回されずに、今進みたい方向へと生きる舵取りができるのですね。

 是非この記事と共に、認識について考える営みにお付き合い頂けると嬉しいです。

意識の創作物

 まず認識とは「意識の創造物」です。

 私たちの意識が様々なモノを見聞きしながら、自分なりの解釈で「このようなモノだ」と批評している。これこそ認識の正体です。だからこそ同じモノを見ていても、人によって全く違う解釈をする。つまり認識には歪みが絶対的に孕むものであり、その数は無数に広がっていくものなのですね。

①仮説

 このことから認識とは、仮説に過ぎないモノという事実が垣間見えます。

 この世の全ての意見・感想を含んだ認識(2次情報)は仮説であり、絶対的に正しいものなんてありません。また客観的な数字・事実(1次情報)だと誰もが疑わない認識であっても、時代が移り変わって実は間違いでしたというケースもザラに存在します。この事象も、人類全体で1つの仮説を真実だと錯覚していたということになるのですね。

 もちろん仮説として立てた認識が、客観的な数字や事実になっているケースだってあります。しかし全てのモノを俯瞰して感じ取るには、相当な修練や数多くの知識が必要です。だからこそ科学は日進月歩で突き進んでいるのです。

②確証バイアス

 また意識の創造物である認識には、複数の認知バイアスによって歪められるでしょう。

 その中でも代表的なものに「確証バイアス」というものがあります。

 確証バイアスとは、自分にとって都合の良い情報だけ気づき、反証の情報に気づこうとしない歪みの認識のこと。だからこそ人は、誰しもが無意識だとポジション・トークを提唱する人間へとなってしまう。また常識を、無条件に信じ込む人になってしまうのですね。

 正しく俯瞰できている人であれば、全てがポジション・トークであり、常識という他人の作った仮説に認識を合わせれば、みんなで手を繋げるのだなと理解していることでしょう。

客観的な視野

 では認識をより「客観的な視野」にするには、どうすればいいのでしょう?

 そこでまずは客観的について考えてみましょう。

①主観と客観の比率

 客観的とは、認識の要素となる主観と客観の比率が、少しばかり客観の含有量が多い状態です。そして他人との相対比較で、ある人よりも客観の割合が多い場合に、私たちは客観的な視野と認識するのですね。そし全ての人間が、深層心理では自分のことは客観的だと自負しているのです。

②無知の知

 話が少し飛びますが、古代ギリシアの哲学者にソクラテスという人物がいます。

 彼は「無知の知」という言葉を残していますが、言葉の意味としては「自分が知らないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」という事柄を表しています。

 この言葉には、客観的な視野に近づくためのヒントが隠されています。なぜなら知らないと自覚しているからこそ、今の当たり前や知識を疑って新しい知識を求める。そしてもう1度考えなおすプロセスを何度も繰り返す。この作業が意識の創作物である認識の精度を、生涯をかけて客観的な視野の方向へと昇華させていくのですね。これこそが学ぶこと、考えて成長することの楽しみなのです。

③崖に飛び込む

 しかし、客観的な視野への道のりは生半可な道ではありません。

 現在の仮説となる認識を間違いかもしれないと認めることは、未来への不安感を高めてしまうから…。なぜなら新たな認識の行動による未来を、自分自身が経験したことがないのだから…。つまり未来の自分が、幸せになっているイメージが出来ないということです。これこそ人間が、今に滞在しようとする本能なのでしょう。

 もしも客観的な視野を目指して、自分の認識の間違えを認めようとすれば、目の前の崖に飛び込むようなもの。だからこそ怖くてしょうがない。しかし崖に飛び込んでみれば、実は崖の下の世界は、崖の上の世界よりも心地良いということは多々あるのですね。

④スマホの具体例

 最後にスマホの具体例をご紹介して、本記事を締めたいと思います。

 例えば夜にスマホを触ってしまう人がいたとして、その人は自分の行為に対して当たり前という認識を持ち、程々の幸せも感じているとします。ですが次の日に、何か身体がダル思いという不快感も背負っている。そこで他人や書籍が、夜にスマホを辞めれば次の日に心身とも爽快になり、夜のスマホ以上の喜びが手に入ると述べていた。

 ここでスマホを夜に触らないという真逆の行動が出来れば、最初は崖への恐怖心で苦しいかもしれませんが、より客観的な視野に近づいて未来の爽快な人生が手に入ります。このように認識を広げていくには、行動するしかないのですね。

最後に

 本日は「認識について考える」というお話、いかがでしたか?

 意識が生み出した「認識」はあくまで創造物であり、私たちは誰しもがこの創作活動から逃れられません。この認識をより高度なモノに仕上げるには、好奇心に従って見聞きして、自分の頭で考えて行動まで落とし込みましょう。もしも思考停止で言うがままに生きてしまえば、創造物は子供の図工作品程度のものになってしまう。

 もちろん認識を客観的な視野に近づけていくことが、正しい訳でも間違っている訳でもなく、それすら1つの認識です。ですが客観的な視野は、相手への気遣いを促したり、他人への攻撃を防止します。私個人の主観としましては、全ての人が認識の創造物づくりにハマり、その先にみんなで優しさを共有できる世界が待っていたら嬉しく思います。

 本日はご精読ありがとうございました。

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