本日のテーマは「僧侶に聞くシリーズ③・三毒の煩悩」というお話です。
自分の生活と接点がない思想ほど、人は新たな学びを得るものです。そこで私も含めて多くの日本人があまり関わらない、仏教という思想に注目してみました。「僧侶から学びを得よう」をコンセプトに試みてきたシリーズですが、いよいよ本記事で最終章です。
最後のテーマは「三毒の煩悩」についてのお話です。人間には108の煩悩があると言われ、その中でも特に私たちを苦しめる、3つの強大な煩悩が存在します。それを仏教では毒に比喩して、三毒と表現しているのですね。
三毒の種類はと言うと「貪欲(とんよく)」・「瞋恚(しんい)」・「愚痴(ぐち)」です。それらを総称して「貪・瞋・痴(とんじんち)」とも言い表すそうですね。ではそれぞれの煩悩を深堀りして学び、抽象的概念を抜き取り、普段の具体的な実生活にまで落とし込みを行いましょう。
貪欲(とんよく)
まず三毒の煩悩1つ目・貪欲です。
貪欲とは、様々な欲求の総称の呼び名です。
①7つの欲求
とどのつまり僧侶に聞くシリーズ・第1回目でご紹介した「7つの欲求」のことです。
これらの欲求を、一言で包括した語彙と言えるでしょう。私たちは7つのどれかしらの欲求に動かされ、無意識に反応して毎日を過ごします。そして欲が満たせれば喜びを感じ、欲が叶わなければ苦しみを抱く。仏教では、人生とはこの繰り返しであると言われているそうですね。
②苦しみとは執着
そして苦しみの正体は「執着」です。
貪欲に動かされ反応したのにも関わらず、それが叶えられず苦しみが生まれた。もちろん失敗しても努力を続け、結果を動かして苦しみを喜びに変える。これが自己成長であり、それほど良い結末はないでしょう。
しかしこの世には、どうしても動かせない結果も存在する。特に他人や過去に関することは、高い確率で自分ではコントロール出来ません。そんな巨大な岩のような事象であるのに、まだ変えたいと願ってしまう。この執着こそが、継続的な苦しみの正体なのですね。
仏教では執着の心を、喉が渇いて水を求めることに比喩して「渇愛(かつあい)」と呼ぶそうです。
瞋恚(しんい)
次に、三毒の煩悩2つ目・瞋恚のお話です。
瞋恚とは、怒りのことです。
①欲は怒りに変化する
ここのステージでは、欲が怒りに変化しました。
貪欲が叶わなかったことにより執着して苦しみを感じ続けると、人は叶わない原因に対して怒りを抱くことでしょう。つまり他のモノに責任転嫁して、偽りの自己肯定で楽になろうとするのです。プロセスとしては「貪欲→叶わない→苦しみ→瞋恚」の順に、心の流れは描かれます。
そして怒りは蓄積し肥大化するので、最初の苦しみ以上の苦しみに自分自身が覆われてしまう。人間が年をとるほどに、頑固に気難しくなるのもそのためです。つまり怒りやすい人とは、過去への執着心が強い人と言うことですね。
②相手も不幸にする
そして瞋恚の厄介なところは、自分だけでなく相手も不幸にする性質でしょう。
怒りを向けられた人は、強い不快感を抱き苦しみを感じてしまいます。また全ての感情は相手に伝播しますから、他人にも怒りやすい性質をパンデミックさせてしまう。まさに苦しみとは、ウイルスに比喩できるでしょう。
③悲しみも怒りの一種
そして悲しみも怒りの一種です。
悲しみは誰も攻撃している訳ではないので、全く別種の感情と捉えがちです。しかし抽象的な性質としては、過去に叶えられなかった貪欲の執着継続であることは同じです。そのことから悲しみは怒りに変化すると言われます。
具体例を挙げますと、恋人に振られて初期では悲しみを強く抱いて泣いている。しかし数ヶ月立つと、その相手に対して今度は悪いところを列挙して怒りを露にしてしまう。つまり悲しんでいる状態も、瞋恚であると言うことですね。
愚痴(ぐち)
最後に、三毒の煩悩3つ目は愚痴です。
愚痴とは、他人を羨み妬みの気持ちを抱くことです。
①悪口を羨ましいから
一般的に愚痴と言えば、他人への悪口を陰で言うことを指します。
これだけ聞くと「愚痴」と「羨み妬みの気持ち」は、違うモノのような気がしますよね。しかしこの2つは表裏一体なものであり、羨み妬みの気持ちをも仏教では愚痴に分類されるそうです。
貪欲が叶えられなかったことによりその原因に怒りが湧き、それを得ている人に対して羨み妬む気持ちが生まれる。更に相手と自分を比較して惨めになる苦しさから、相手の悪いところを探して自分を慰めるのです。「でもあの人は、こういう欠点あるよね」と…。これが愚痴の正体です。
つまり悪口を言うことは、相手のある部分を羨ましいと感じていることと同義なのですね。
②言葉にしなくても愚痴
そして仏教では、言葉にしなくても愚痴と言われています。
心で羨み妬んだ時点で愚痴であり、そう捉えれば愚痴を感じない人は1人たりともいないことになる。つまり全ての人は、愚痴を含めた三毒をつくっていると認識しているようですね。
欲求の選定
では三毒の煩悩に対して、個人的な解決方法を吟味してみました。
それは「欲求の選定」をするという、アクションプランです。
①貪欲は自己成長に繋がる
なぜなら貪欲は、自己成長に繋がる要素も孕んでいるからです。
仏教では悪いものと定義される貪欲であっても、私は使い方によっては薬にも毒にもなると思います。つまり貪欲があるから「より良い自分になっていこう」、「相手をも大切にする自分になっていこう」と思えるのではないでしょうか。
②マインドフルネス
だからこそマインドフルネスは、絶対必須の能力だとも思うのです。
今ここの現実に客観的に気づくことが出来なければ、良い欲求と悪い欲求の選定が出来ません。そうなればただ利己的な欲求や身を滅ぼす欲求とは乖離できず、利他共に悪い方向へ行ってしまう。
そしてマインドフルネスは他人や過去など叶えられない欲求に対して、執着を手放すときにも使えます。上手く執着を流すことができれば、瞋恚・愚痴の負の流れには溺れずにすむでしょう。
③欲求使用は高度な能力
私が三毒の煩悩から学びを得たことは、欲求を使いこなすには高度な能力が必要であると言うこと。そのために自分を知り、周りを知り、マインドフルネス能力を研磨する必要があると感じました。
最後に
本日は「僧侶に聞くシリーズ③・三毒の煩悩」というお話、いかがでしたか?
仏教という視点から3つの理論を用いて、日常生活に活かせるアクションを考えてきました。皆さんも是非、自分だけのアクションを考えてみてくださいね。
そして仏教での結論を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えて結論の書き換えをすることも重要です。そのことから私は、欲求は選定するものという気づきが得られました。是非とも仏教の結論・私の結論を思考材料の1つとして、自分なりの結論を導きだしてくださいね。
本日はご精読ありがとうございました。
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