本日のテーマは「承認を目的とした先」というお話です。
人間は社会的な動物として群れを作る遺伝子を持つことにより、大なり小なり誰もがコミュニケーションを求めています。しかし本能のままに生きると、コミュニケーションで苦しみを感じてしまうでしょう。
その本能とは、自分のことを認めて欲しいという「承認欲求」に駆られて生きることを意味します。ではコミュニケーションを行う目的が承認となった先には、具体的にどのような惨事が起こるのでしょうか…?
本記事では3枠に分けて、承認を目的とした先をご紹介していきたいと思います。
自己肯定感の低下
承認を目的とした先・1枠目は「自己肯定感の低下」です。
①自己肯定感とは
自己肯定感とは、あるがままの自分を好きでいられる自信のこと。
他人が評価するものを、自分は何も手にしていなかった。そんな状況でも、自分の心が自分に対して肯定的な評価が出来ている。だから無駄に承認を渇望しなくなり、いつでも幸せを噛みしめることができる。これが自己肯定感の高い人です。
とどのつまり承認に駆られているということは、自己否定感が高いとも言えるのですね。ではなぜ、自分で自分を否定してしまうのでしょうか?
②他人の人生で生きる
その理由は、自分の人生であるのに、他人の人生を生きることに原因があります。
本来ならば、自分はどう生きたいのか自問自答して自分の価値観を形成する営みは「幸福」という目的を達成するためには必要な要素です。しかし、考える作業はとても労力がかかるので、手っ取り早く幸福になろうとすると承認渇望へと走ります。
つまり、他人の価値観を思考停止で鵜呑みにして生きてしまう。とは言っても自分の心の奥底では視野狭窄しているだけで、こう生きたいという価値観は存在している。それを無視し続けているからこそ、自己肯定感が下がって自分を嫌いになるのですね。
③自己否定のサイクル
そして承認の罠の厄介なところは、自己否定のサイクルに陥ってしまうことでしょう。
他人の人生を生きることによって、毎日が楽しくない。だからこそ通常以上に、承認を渇望するようになる。そしてその承認が自分を押し殺す反復となり、自己否定感も募っていくという仕組みです。
サイクルを回す程に自己否定感や承認は肥大化していき、まさに泥沼にハマって逃れられないことと全く同義です。これこそ承認を目的とした先の、1つ目の現象と言えるでしょう。
偽善者の誕生
承認を目的とした先・2枠目は「偽善者の誕生」です。
①心からの親切ではない
承認が原動力となった他人への施しは、心からの親切ではありません。つまりは偽善者になるということですね。
なぜなら認められるという目的を達成するための手段として、相手に親切をしている。これがもしも誰も認めてくれなければ、怒りを感じるかもしれない。そしてその後は、利己的な行動しかしないことでしょう。
②募金の具体例
具体例があると分かりやすいと思いますので、募金を挙げましょう。
承認が強い人は他人が見ているところや、自分が募金をしていると知ってもらえる状況でしか募金をしようと思いません。誰も気づかない募金は、ただ自分の財布からお金がなくなっただけ…。何のリターンも得られないと感じるからです。
しかし自分の価値観で生き、自己肯定感が高く、承認を求めていない人であればどうなるでしょうか…?
きっと心に正直に生きるからこそ自分は常に満たされ、その余裕の心によって恵まれない人への慈愛の感情が溢れ出てくることでしょう。人間は余裕がなければ、他人を思うことが出来ないのですから当然です。
③エンドルフィンの効用
さらに慈愛からの親切を施した人は、幸福の種類が変わります。
鍵となるのはエンドルフィンという、脳内麻薬とも言われるホルモンです。自分のための活動をした際に分泌するドーパミンの快楽と比較して、エンドルフィンは20倍の快楽を感じます。その強さ、モルヒネの6倍の鎮痛効果を持つと言われるまさに麻薬…。
④ランナーズハイ・ヘルパーズハイ
このエンドルフィンの分泌条件としては、激しい運動や慈愛の気持ちからの親切をした際に分泌すると言われます。その具体的な事象として、ランニングをするとエンドルフィンが分泌して多幸感を感じたり、ボランティアをするとエンドルフィンが分泌して同様の結果がもたらされるのですね。この現象を「ランナーズハイ」・「ヘルパーズ・ハイ」と定義されています。
つまり承認を目的とせず偽善者の要素が減少する程に、さらなるエンドルフィンの快楽が得られ幸福の循環にハマれるということ。だからこそ最初は少し苦しくても、承認欲求をコントロールする努力が必要となるのです。
他者強要
承認を目的とした先・3枠目は「他者強要」です。
自己肯定感が下がり、偽善者の親切しか出来ないことにより幸福感が下がるのなら、まだ自分が損しているだけです。
①悪意のない凶器
しかし承認を目的とした先には、他者に対してマジョリティが信奉する価値観を強要してしまうことでしょう。まさに悪意のない凶器を振りかざすとでもいいましょうか…。そして自分は心の底から、正義の執行人だと信じ切ってしまう。
②自由な人が羨ましい
ではなぜ他者強要してしまうのでしょう?
その理由は、自由な人が羨ましいという潜在意識の感情にあります。本当であれば自分も、心が求める価値観で生きていきたい。しかし承認というニンジンを社会からぶら下げられ、そこからはみ出す勇気がない。
しかし勇気を乗り越え、自由に生きて幸福そうな人がいる。すごく惨めな感情になることでしょう。自由な人が羨ましくてしょうがないのですね。だからこそ自分を正当化して慰めるために、常識がない人だと強要し攻撃します。そして裏に大多数の同じ価値観がいるという盾を武器に、正義の気持ちに浸るのですね。
最後に
本日は「承認を目的とした先」というお話、いかがでしたか?
一見、目の前の承認欲求に従えば早く幸福感が得られるでしょう。しかし長期的な視野で見ると、このような3つの現象を生み出してしまう。この状態は、本当に幸せなのでしょうか?
自分の価値観で生きれば、自己肯定感も上がり、慈愛からの親切でエンドルフィンの多幸感も得られます。更に自分の人生を生きているからこそ、他人が異なる人生を生きていても、相手を正しく承認することができる。もちろん強要などもしません。
是非とも、自分の価値観・人生を模索する時間を作ってください。それが長期的な幸せのキーとなるのですから…。そして答えは人の数だけ存在します。
本日はご精読ありがとうございました。
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