本日のテーマは「褒めることは悪?」というお話です。
褒めるという言葉を聞くと、私達は肯定的な意味合いを感じます。なぜなら褒めるとは、相手の良い部分をフォーカスする視野があるからこそ出来ることだからです。
しかしオーストリアの精神科医・心理学者でもあるアルフレッド・アドラーは、褒めるという行為について警鐘を鳴らしているのです。ではなぜ肯定的な意味合いで多くの人が認識している行為を、アドラーは否定的な行為だと感じているのでしょう?
本記事では、褒めるという行為を深堀りしてアドラーの心の中を垣間見ていきましょう。そして最後に、褒めるという行為に対しての私の意見で締めさせて頂きます。
目的は操作
まずはアドラーが認識する、褒めるという行為の目的についてのお話です。
それは褒めることの目的を「相手を操作すること」だと認識しています。
「褒めたことによって、何で操作につながるの?」と、多くの人が感じたのではないでしょうか…?この項では、褒めると操作の関連性のカラクリを解き明かしていきましょう。
①承認欲求を満たす
そのカラクリは、褒めることが「相手の承認欲求を満たすこと」に繋がるからです。
人は誰しも相手に認められたいという、承認欲求を持っています。そして満たしてくれる相手は強烈な喜びを与えてくれる対象であり、快楽を与えてくれる相手の望む行動をとりたいという心理が働くのですね。
とどのつまり褒めるという武器を使用すれば、相手を自分の望む方向に操作できると言えるでしょう。
②縦の主観
そしてアドラーは褒めることによって、利他ともに縦の主観の住人になってしまうと説いています。縦の主観とは、人の価値を上下で認識して常に競争している思想です。それに対して横の主観は、能力・性質の差異はあれど価値として対等で横一直線という認識を持つ思想なのです。
そして褒めるという行為を深ぼると、上の人が下の人に対して行う行為です。つまり無意識に相手を下だと認識しているから褒めるし、上だと認識しているから褒められたがるのですね。「褒めてやろう・褒められたいな」と感じている時点で、その人は縦の主観の住人である紛れもない証拠となるのです。
③自己否定の信念
そして縦の主観は、自己否定の信念と表裏一体なもの…。外からの評価で自信を得るということは、それらなしでも内から自信が湧き上がってくる自己肯定感と対極に位置します。
どんな状況でも執着なく感謝のマインドを持って、主観的幸福感を感じるには自己肯定感が必須です。その目的を達成するためには「縦の主観・自己否定の信念・褒めるand褒められたがる」、これらの心理は邪魔なものとアドラーは考えているのですね。
叱ることと同じ
そして褒める行為は、叱る行為と同じとも言えるでしょう。
一見真逆にも見える2つの行為ですが、目的として相手を操作するというゴールは同じなのです。
①恐怖・不快を与える
叱ることは、相手に「恐怖・不快を与えること」です。
人間は恐怖・不快から逃れたいという気持ちを持っており、それらが表出される行為を辞めようとする習性を持っています。だからこそ叱るという武器を用いれば、相手の行動を操作することが出来るのですね。
②アメとムチ
まさに褒めることと叱ることは、アメとムチのどちらの選択肢を使用するかの違いであると言えるでしょう。
もちろんアメを用いて相手が常に縦の主観でも、外側から自信が得られる環境で一生が終わるのであればそれも幸せかもしれません。しかし多くの人が、外側からの自信が感じられずに自己否定の信念で苦しんでいます。この状況では、やはり褒めるという行為は悪となるのでしょうか…?
褒めるの使用方法
ですが私は「毒を持って毒を制す」という言葉があるように、褒めることも使用方法によっては薬になるなと考えています。ではどのような目的を持つのであれば、褒めることは毒から薬に転化するのでしょう…?
①操作→導く
それは「操作ではなく導く」という認識を持つことだと思うのです。
能力が低いことや、怠惰な行動を行うことは下ではありません。ただ俯瞰して物事を眺めたときに、人生の難易度が上がることはファクトです。このままでは相手が苦しみの状況に陥ってしまう。だからこそ対等ではあるけれど相手の幸せを願って、主観的貢献感から導くという認識を持つ。こう考えれば、決して悪いことではないと思うのです。
具体的には、私は2つの力を手にできるように導きたいと考えています。
②自分の頭で考える力
1つ目の力は「自分の頭で考える力」です。
他人の価値観や、その時代のこうあるべきという物語を思考停止で染まるのでなく、自分自身でどの価値観や物語を採用して生きていきたいかを考える。これこそが自分の頭で考える力です。
自分で選んだ道であれば、どんな結果になろうと人は他責思考になりません。しかし他人から褒めることや叱ることの武器を用いられ、無意識に選んだ道であれば、悪い結果が生まれたときに他責思考になってしまう。
つまり幸福を感じるために必要な力の1つとして、自分の頭で考える力は必要不可欠だと思うのです。
③横の主観
また2つ目の力として「横の主観を持つこと」が重要だと思います。
この力が手に入れば「褒められたい・褒めてやろう」とも思いませんし、どんな状況に陥ってもあるがままの自分を好きでいられる。人を尊敬もしないし、見下しもしない。全てが対等だと認識できる。
しかし資本主義という、縦の主観が根底にある現在のコモンセンスで育った我らは、基本的に縦の主観を持っています。このパラダイムシフトのための手段として、ゴールとしては矛盾している「褒める」という行為を使うのです。最初は褒めるというご褒美でマインドを導かれるかもしれませんが、横の主観を手にできたのであれば途中過程はともあれ、もう人に操作されることもありません。これこそ毒を持って毒を制すということではないでしょうか。
最後に
本日は「褒めることは悪?」というお話、いかがでしたか?
褒めるという武器は、結局はゴールへの使用方法によって善悪どちらにも転ぶものだと思います。自分のために相手を動かすのであれば悪になり、相手の未来の幸せのために相手を動かすのであれば善となるのですね。自己中心的な目的で、褒めるという行為を安易に使用しない人が増えれば、個人的には嬉しく思います。
本日はご精読ありがとうございました。
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