相沢忠洋によって開かれた「旧石器時代」

歴史

 本日のテーマは「相沢忠洋によって開かれた旧石器時代」というお話です。

 本ブログで歴史の話をすることは始めてとなりますが、歴史は学んで損がない学問です。なぜなら、視野を広げる最大のツールだから…。

 対人関係で起こる価値観の違いによるいざこざや、変化したいけど固定観念が邪魔して変われない。これら全ての原因は「客観力の低さ」にあります。そして歴史は「国・宗教・民族」など、様々な思想感に触れて視野を広げていくもの…。是非とも、あなたも歴史を学んで日常生活の問題解決に活かしてみてくださいね。

 そして第1回目は、日本史のスタート地点「旧石器時代」についてです。

 実はこの時代、日本列島に人類が生息していたことが判明したのが、最近ここ100年のことなのです。そしてこの100年に、正しい歴史を切り開いた男こそ「相沢忠洋」という人物です。では本章では、旧石器時代や相沢忠洋について深掘りして学んでいきましょう。

旧石器時代

 旧石器時代とは、約10万年前~1万4000年前の日本の時代区分のこと。

 紀元前(AD)と西暦(BC)の切り替わり地点が約2000年前なので、とてもとても昔のお話ですね。時代区分のマクロな視点「原始・古代・中世・近世・近代・現代」に分けたのなら、1番最初となる「原始」の枠組みに分類されるでしょう。

①ユーラシア大陸と地続き

 そしてこの時代、今のように日本列島は独立した島ではなかったのです。巨大なユーラシア大陸と、なんと地続きだったと言うのですね。そして現在の日本海が、大きな湖だったと言われている。これは琵琶湖も、びっくり仰天なスケールですよね。

②火山活動or温暖化

 現在の日本列島へと分裂した理由は、まだ正しい事実が判明していません。それもそのはずで、言葉がない旧石器時代では当時の細かい状況を伝える術がないからです。

 ですが「考古学」という遺跡発掘による学問によって、当時の様子を探っています。本章のタイトルになっている「相沢忠洋」も、何を隠そう考古学者なのです。

 そして実際に分裂したと言われる時代は次回記事でご紹介する縄文時代ですが、ただ旧石器の章で取り上げさせて頂きますね。

 分裂した理由は諸説唱えられおり、例えば「驚異的な火山活動によって大陸が分裂したのではないか?」・「温暖化により氷河が溶けて海面上昇が起こったのではないか?」など示唆されています。これらの謎があるからこそ、考古学者の魂を揺さぶり、この学問に学者たちを没入させるのかもしれませんね。

③野尻湖の化石

 ただ旧石器時代に人類生息が判明したのはここ最近ですが、動物に関してはそれ以前から生息が確認されていました。

 それは現在の長野県にある「野尻湖」という湖で判明しました。その湖で「ナウマンゾウ・オオツノジカ」の化石が発見されたのです。このことから旧石器時代にはもう、日本列島には動物が生息していたことが分かっていたのですね。ですがまだ100年前までは冒頭でご紹介した通り、人類が生活した痕跡は発見できていなかった…。

相沢忠洋

 そこにきて「相沢忠洋」の登場が、歴史を変えました。

①大正生まれの考古学者

 相沢忠洋は、大正15年生まれの考古学者です。大正の最後の年に生まれて、流れること昭和の時代、旧石器時代に人類生息を遂に突き止めたのです。

 ちなみにこの時代の人類は「旧人(ホモ・ネオンデルターレンシス)」と「新人(ホモ・サピエンス)」の、どちらもが生息していたと推測されています。

②貧しい幼少期

 そして話を相沢忠洋に戻しますが、彼は貧しい幼少期を送りました。

 両親が離婚したことにより奉公に出され、とても苦労した人物なのです。奉公とは、他人の家に雇われて、住み込みで家事に従事すること。その対価として、食事や寝床などを与えてもらっているという具合です。いわば、家政婦さんのようなものですね。

③独学で考古学

 そんな貧しい彼が大学へ通える訳もなく、独学で考古学を勉強したそうです。生計は納豆などの行商を行い、生活費・勉強費を工面したと言われています。とどのつまり、苦学生よりも苦しい状況から、這い上がってきたとも言えるでしょう。それを可能としたのは承認ではなく、ただただ自分の好奇心に従ったからだと私は思います。

 話を少し逸れますが、イェール大学の成田悠輔さんもそうですが、やはり地頭力が高い人は書籍で1人で勉学を進めていくことが可能なのですね。何より活字でインプットした方が講義より速く、また自分の好きなタイミングで思考という余白を入れることができる。最強の勉強法は、実は独学なのかもしれません。

岩宿遺跡

 そして相沢忠洋は遂に「岩宿遺跡」を発見します。

 時は昭和24年のことであり、終戦から間もない頃の出来事です。

①群馬県みどり市に「打製石器」

 岩宿遺跡は、現在の群馬県みどり市にある遺跡です。

 その遺跡で彼は「打製石器」を発見したのです。

 打製石器は、石を握りやすくするために、ただ削っただけの石器です。文字通り「だせぇ石器」となるのですが、人類でなければこのようなアレンジでさえ出来ません。削る方法としては、石と石をぶつけたり、硬い箇所に石をぶつけて、凸凹した部分を握りやすくしたものと言えるでしょう。

 次の時代区分となる縄文時代の「磨製石器」と比較して、旧型の石器だなという意味で、この時代を旧石器時代と呼ぶのですね。

②人類生息の証明

 またメイン内容となる人類生息の証明も、打製石器の発見で結論づけられました。

 これは原始時代の日本の歴史を、大きくパラダイムシフトさせる発見です。それを大学に通わず、独学の考古学で発見した相沢忠洋は、まさに日本の歴史上欠かせない人物の1人であると言っても過言ではないでしょう。

③1度は大学教授の手柄に…

 ですが岩宿遺跡の発見は、1度は大学教授の手柄になってしまったそうです。

 大学にも通っていない、影響力のない相沢忠洋が1人で発掘活動に従事できる訳もなく、大学教授が協力してくれたそうなのです。ただ、なんとその功績を教授が独り占めした。まさに人間の性ですね。

 ですがその後も数多くの遺跡を発見した功績により、旧石器時代を開いた岩宿遺跡の功績もしっかりと認められるようになったそう…。この事象を垣間見ると、もしかすると功績が改ざん・歪曲されて伝播した内容も、実は多いのかもしれません。

最後に

 本日は「相沢忠洋によって開かれた旧石器時代」というお話、いかがでしたか?

 私が、彼から学べるポイントだなと感じたのは「本を読むことの重要性」ではないかと思います。セミナーで人に話を聞かなくても、動画で音声・映像で理解しなくても、言葉だけで人は学ぶ事ができます。もちろんそれぞれのツールで一長一短はあるのですが、本のみ思考の余白があるのです。

 セミナーや動画であれば、次々と内容が進んでしまい、自分が疑問を感じたときに思考することが出来ません。そうなれば、ただ思考停止で言われたことを頭の中にコピペしただけです。しかし本は自分の頭で考え、なぜそうなのだろうと深い理解に近づける。また自分だけの見解を考えてつくることだって可能です。

 全てのインプットを本にしようという訳ではありませんが、本こそが主要となるインプットツールということは、是非とも相沢忠洋から学びましょう。

 本日はご精読ありがとうございました。

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