「縄文時代」の人々の暮らし

歴史

 本日のテーマは「縄文時代の人々の暮らし」というお話です。

 縄文時代とは、約1万4000年前~2300年前頃まで続く、日本の時代区分のことです。前記事で取り上げた「旧石器時代」が、約10万年間続いたことにより相対的に短く感じるかもしれません。しかし縄文時代の約1万年も物凄い長い年月であり、この後の日本の歴史を紐解くほどにそう感じるものです。

 では縄文時代の人々の暮らしについて、3枠に分けながらご紹介していきます。

土器・石器・土偶

 まず縄文時代の人々は「土器・石器」を使い、「土偶」という土でこねた人形を作っていました。

①縄文土器

 この時代の土器は「縄文土器」と呼ばれます。

 日本史上初の土器であり、中にモノが保管できるようになった発明品は最大の進捗でしょう。この土器の特徴としては、表面に網目模様がついています。だからこそ縄文土器と称され、この時代の名も縄文時代と呼ぶのですね。

②磨製石器

 次に石器は「磨製石器」に進化しました。

 旧石器時代の記事で、考古学者・相沢忠洋が岩宿遺跡で「打製石器」を発見しましたよね。この打製石器は、ただ石と石を打ち合わせただけの石器です。パッと見はただの石であり、持ち手の部分を握りやすくするために、打ち合わせて削ったのみです。

 それに対して縄文時代の磨製石器は、使用する石を磨いて表面を滑らかに加工しています。日本庭園に敷き詰められた石のようなデザインで、使用方法としては槍の先に取り付けたりなどもします。

③ハート型土偶&遮光器土偶

 最後に土偶のお話です。土偶には様々な形状のモノがあり、ここでは2つの有名な型をご紹介します。

 それは「ハート型土偶」「遮光器土偶」です。

 ハート型土偶は、顔がハートの形をしており、豚のような鼻をつけたお顔をしています。体はどうかというと、とてもスリムな体型ですね。また遮光器土偶は、それとは正反対に太っちょな体型をしています。目はメガネらしきものをつけ閉じていることから、遮光器土偶と称されるのです。

④女性崇拝説が有力

 では土偶という人形は、何のために作られたのでしょうか…?

 実はまだこの理由について、現段階で正確な答えは分かっていません。ですが人間は考える生き物です。古代ギリシアの「アレテー(そのものの性質)」という理論からも、「人間のアレテーは考えること」と説かれています。間違っても、人間のアレテーは暗記することではないのですね。

 そして考古学者達は「土偶の目的は?」という問いに、考え続けました。そして複数の仮説が示唆されています。ここでは代表的な仮説として、「女性崇拝説」をご紹介していきます。

 女性崇拝説とは、女性の体に備えられた子供が宿る神秘的な力を崇拝するため、土偶を作成したのではないかという考えです。仏教で仏像を大切に拝んだり、現代人も好きな人形・フィギュアを集めるという人もいますよね。これらも抽象的な役割としては、土偶と全く同じものではないでしょうか…?

三内丸山遺跡

 次に、縄文時代の人々が暮らしていた集落を1つご紹介です。

 その集落とは「三内丸山遺跡」です。

①青森県青森市の大規模集落

 三内丸山遺跡は、青森県青森市にあったと言われる大規模な集落のこと。

 当時の人々は水辺の近くの高台に集落をつくり、集団生活をしていました。なぜ水辺の近くかと言えば、生きる上で水分は必須なアイテムです。また高台に集落を作ったことにも、理由はあります。なぜなら自然と隣り合わせの暮らしの中で、水辺は水害のトリガーです。しかし高台であれば、水害も起こらないでしょう。だからこそ、水辺の近くの高台に集落を築いたのですね。

②竪穴式住居

 そしてこの遺跡(集落)にあった、建物たちを2つご紹介です。

 まずは、誰もが1度は耳にしたことがあるであろう「竪穴式住居」です。

 竪穴式住居とは、地面を掘ってくぼめた床に柱を立て、そこに煙出しの屋根をかけた建物です。とどのつまり、半地下住居とも言えますね。もちろん自然対策もバッチリな作りとなっており、雨水が住居に入らないように、掘った穴の周りを「土盛り」と呼ばれる技術で囲んだそう…。まぁ言葉どおりに土を盛って、そこで水を喰い止めるダムのような役割を担ったということです。

③掘立柱建物

 また「掘立柱建物」は、地面に6つの穴を掘り、そこに柱を立てて交錯させたものです。ジャングルジムのような建造物であり、用途は未だに解明されていません。しかし、その後の歴史となる弥生時代の「物見櫓」に応用されているので、そこまで未来予測をして建築作業をしていたのかもしれませんね。

大森貝塚(モース貝塚)

 最後に、縄文時代の人々が活用していた「貝塚」のご紹介です。

 その中でも有名な貝塚は「大森貝塚(モース貝塚)」と呼ばれます。

①東京都品川区~大田区

 大森貝塚は、現在の東京都品川区~大田区にまたがって存在した貝塚です。現在は「大森貝塚遺跡庭園」として、品川区が管理しています。

②エドワード・モース

 さらにこの貝塚を発見したのが、日本人ではなくアメリカ人なのです。

 その人物こそ「エドワード・モース」という、19~20世紀のアメリカの動物学者です。モースは明治初期に日本にやってきて、東京大学教授も努めたことのある利発的な人でした。そしてモースが発見したからこそ、大森貝塚の別名をモース貝塚と呼ぶのですね。

③現代のゴミ捨て場

 では貝塚とは、どんな用途で使用していたのか…?

 それは「現代で言うゴミ捨て場」です。

 「鹿・猪の狩猟」・「木の実の採集」・「魚・貝の漁獲」などで、食料を得ていた縄文人。ですがこれらの食事後に、骨や殻などが発生しますよね…?そこで貝塚というゴミ捨て場に、それら食べかすを捨てていったのですね。貝殻もその1要素だったことから、貝塚と称されます。

④貝塚から歴史探索

 そして考古学者は、この貝塚から歴史探索をしています。なぜなら、この時代の日本には文字がありません。つまりは生活内容を、後世に伝える術がないのです。そこで考古学者が当時のゴミ捨て場(貝塚)から、生活内容を推測しているという流れです。

 またそこから推測された流れで、当時の人々の間に身分や貧富の差などほとんどなかった。皆が集合体として助け合い、機能していたとも言われているのですね。

最後に

 本日は「縄文時代の人々の暮らし」というお話、いかがでしたか?

 旧石器時代と比較して、様々な進捗がありましたね。石器が進化し、土器という新しい発明品も生まれました。

 これらの事象は、私達も学べる抽象的概念が豊富に詰まっています。今のやり方よりも良いやり方はないかと考え、生活を改善していく。または、新しい習慣にパラダイムシフトしていく。

 とどのつまり変化を拒む人は、縄文人以上に考える力が劣化しているかもしれません。だからこそ、この世の様々な事象に好奇心を持ち学び、それを組み合わせるアイデアを縄文人のように見つけていきましょう。

 本日はご精読ありがとうございました。

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