「弥生時代」稲作がもたらした不幸

歴史

 本日のテーマは「弥生時代・稲作がもたらした不幸」というお話です。

 縄文時代の日本列島では、皆が狩猟採集民として日々の生活を営んでいました。そこに人類の革命の1つ「農業革命」が、日本にも受け継がれることになるのですね。とどのつまり「稲作」がこの時代から始まり、人々の生活に大きなパラダイムシフトをもたらしたということ。

 稲作のおかげで人々は食料を保存できるようになり、その日暮らしの生活から開放されることになります。ですがこの世の全てはトレードオフであり、それと同時にデメリットも背負わなければいけません。

 本章ではそのデメリットとなる不幸を、2枠に分けてご紹介していきます。

貧富・身分の差

 稲作がもたらした不幸・1枠目は「貧富・身分の差」です。

①稲はお金になる

 食料が保存できるということは、それを通貨として使用する流れも必然でしょう。なぜなら、みんなが価値を感じる共通項だから…。稲という穀物を通して、様々な物々交換が可能となり便利になります。

 そして人間ですから、得手不得手があるのは当然です。もちろん稲作も例外ではなく、上手い人と下手な人が必ず現れます。結果として、稲作が得意な人はお金持ちとなり、苦手な人は貧困層に陥るのですね。現代に置き換えれば、仕事・投資で優秀な人はお金持ちになり、知的活動が苦手な人は貧困層に陥ることと同義です。

②共同作業でリーダー必須

 また稲作は共同作業で行いますから、リーダーがいなければ成り立ちません。現代でも、会社員としてチームで仕事をするケースや、趣味サークルで長く繁栄するものは、必ずといっていいほど取り纏め役がいるはずでしょう。

 そして弥生時代の稲作リーダーは、そのまま高い身分へと成り上がります。現代にも通ずる能力主義の思想は、ここが起源だったと言えるでしょう。縄文時代であれば、数十人の群れとして生活を営んでおり、大黒柱となる強いものが弱いものを守っていた。それが1つの国(群れ)の人口が増えすぎたせいで、そこには慈愛の気持ちが取り除かれ、競い合いの集合体となるのですね。

③青銅器の登場

 そして「青銅器」が、この時代に登場します。

 青銅器は柔弱のことから、農具や武具としてはあまり役に立ちません。しかし、その美しさから「権力の象徴」を示すモノとして活用され始めたのです。現在で言うところの「ベンツ・レクサス・ロレックス」に類似しているかもしれませんね。

 他の使用法としては、祭具としても活用されていたと言います。

戦争

 稲作がもたらした不幸・2枠目は「戦争」です。

 ついにここが、日本史での戦争の黎明期です。

①土地・収穫物の奪い合い

 人々は定住生活を始めたことにより、作物が育ちやすい土地の奪い合いが始まります。また実際に蓄えられた収穫物は、食料にもお金にもなる貴重な品です。つまりはこの世で最も価値のある品であり、これらを渇望する血みどろの戦いが日本列島で幕を開けたのでした。

②100国の小国

 実際に中国史となる「漢書」地理志に、それを示す1節が説かれています。

 「夫れ、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国となる」と綴られており、現代語に翻訳すると「楽浪郡(現・北朝鮮)の海の彼方に、倭人という奴らが住んでいる。彼らは100国の小国に分かれて生活しているようだ。」と述べられているのです。

 つまりは日本(倭)はまだ1つの大きな国ではなく、その土地は100国が土地や収穫物を争っていたということ。まさに戦国時代にも顔負けしない、戦いの時代だったということですね。

③鉄器の登場

 そんな中、この時代に「鉄器」の登場です。

 縄文時代までは「石器」が武具(狩猟用)としての役割を担っていましたが、鉄器が登場したことで戦争の火種に油を注いだと言えるでしょう。

 また話が少し逸れますが、農具としても鉄器は使用されました。そのことから農耕も盛んになって、人口増加に繋がったというプラスの見方も存在しますね。

④環濠集落と物見櫓

 話を戦争に戻しましょう。現在の佐賀県にある「吉野ヶ里遺跡」の造りや、そこに建立されている建物から、大乱の世だったことが分かります。

 吉野ヶ里遺跡の造りは「環濠集落」という形状で、水堀や柵などで周囲を囲った集落のこと。目的としては襲撃から集落を守ることであり、戦争が盛んでなければ、このようなデザインにするでしょうか…?

 また吉野ヶ里遺跡には「物見櫓」という建物が設置されています。物見櫓は、遠くを見渡すために設けた建物のこと。現在の時代で言うと、展望台をイメージしてもらえればOKです。遠くを見張る必要性があったのも、襲撃の不意打ちを喰らわないようにする準備だったと言えます。

 そして話が少し逸れますが、縄文時代の「三内丸山遺跡」にあった用途不明の「掘立柱建物」を覚えているでしょうか…?柱がジャングルジムのように交錯された、謎多き建物です。

 ですが私は、掘立柱建物は物見櫓の原点だったのではないかと思うのです。実際に、造りを見てみると類似性が存在します。縄文時代には人の役に立つアイデアとして昇華しませんでしたが、生まれたアイデアは考えて育つもの…。そして後世の人が考え、物見櫓に繋がったのではないでしょうか。

最後に

 本日は「弥生時代・稲作がもたらした不幸」というお話、いかがでしたか?

 ここでの1番の学びは「トレードオフの世の中」だと、私は思います。全てのことに、プラスの側面とマイナスの側面がある。稲作により食料が保管できることは最大の進捗ですが、これが現在に続く差別や戦争のスタート地点とも言えるのです。

 また本章ではご紹介しませんでしたが、実際にタンパク質不足で栄養失調となり、狩猟採集時代よりも平均身長が縮んだことも分かっています。つまりは「人口増加」と「個人幸福度」は、必ずしも相関関係にある訳ではない。

 ですがマイナスが生まれたら、次はどうマイナスをなくしプラスだけ残すか…。それを考えることが人間です。一朝一夕には上手くいきませんが、未来の子どもたちの暮らす世界が、少しでも平和に近づくことを祈っています。

 本日はご精読ありがとうございました。

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