弥生の「集落・建造物・器具」

歴史

 本日のテーマは「弥生の集落・建造物・器具」というお話です。

 縄文時代から弥生時代に時が移り、集落やそこにある建物、人々が活用する器具にも変化が生じます。歴史の文明発達を垣間見たことにより、私も昨日より今日と日進月歩していく姿勢を学べました。なぜなら人生も歴史と同じように、進捗感があると有意義なものに感じるからです。

 では本章では「集落」・「建造物」・「器具」の順に、文明の次なる扉を開いていきましょう。

集落の種類

 まずは「集落の種類」です。

 弥生時代の集落だと言われる遺跡を、本項では2種類ご紹介します。

①登呂遺跡

 弥生時代の集落1つ目は「登呂遺跡」です。

 登呂遺跡とは、静岡県静岡市にある水田集落のこと。西暦1世紀頃の集落跡と言われており、集落の独自性としては、日本で初めて水田跡が確認された遺跡ということです。だからこそ、国の特別史跡にも指定されているのでしょう。

 登呂という名称は、静岡県駿河区の後に続く住所「小字」から付けられています。現在は登呂公園として整備され、弥生時代の建造物が復元されているほか、登呂博物館も隣接されているそうですね。タイムトラベルした感覚が味わえそうで、1度は旅をしたいと思える土地でしょう。

②安倍川の自然災害

 ここで1つ安倍川の自然災害をご紹介します。なぜなら、この土地で当時の人々が稲作を始めた理由として、その自然災害が関与しているからです。

 静岡市にある安倍川という河川は、葵区から駿河区を水が流れています。その川が大昔に洪水で土砂が押し流されて、それらが幾重にも積み重なってしまったそう…。そして堤防が自然に完成され、その頭上に集落を形成したと言われます。なぜなら微高地であるので、水害の懸念が解消できるからです。

 自然の災いにより自然から恩恵を受けるという事象は、まさに珍しい物語ではないでしょうか。

③軍事工場建設時に発見

 そしてこの遺跡が有名なもう1つの理由として、軍事工場建設時に発見されたというストーリーもあるのです。

 時は戦時中の昭和18年に、戦闘機のプロペラをつくるための工場建設に日本人は励んでいました。すると偶然にも、土の中から弥生土器などが見つかったのです。その際は戦時中だったために簡単な発掘しか出来ませんでしたが、戦後間もない昭和22年に再び考古学者たちが発掘調査に望みます。そして8万平方メートルを超えると言われる水田跡や、後にご紹介する高床式倉庫が発見されたのでした。

 もしも仮に戦争をしていなければ、登呂遺跡を発掘するトリガーには直面できず、未だに発見されていなかったかもしれませんね。まさに、不幸中の幸いと言えるのではないでしょうか。

④吉野ケ里遺跡

 次に弥生時代の集落2つ目となる「吉野ヶ里遺跡」のご紹介です。

 吉野ヶ里遺跡は、佐賀県吉野ヶ里町と神埼市にまたがる集落のこと。こちらも登呂遺跡と同じく、国の特別遺跡に指定されています。この集落が発見されたのは、実はまだ最近のことで1980年代末に見つかりました。

⑤日本最大規模の環濠集落

 そしてこの遺跡は、日本最大規模の環濠集落として知られています。

 環濠集落とは、水堀や柵などで周囲を囲った集落のこと。とどのつまり敵襲からの攻撃に対して、不意打ちを突かれないように考えられたデザインと言えます。また吉野ヶ里遺跡の周りには小さな集落が点在していて、それらを統括していた中核集落とも言えそうです。

 これら2つが弥生時代を代表する集落となり、縄文時代の三内丸山遺跡以上に、水田跡や環濠集落など、時代に適合された造りが歴史好きの好奇心をくすぐりますよね。

建造物の名称

 では次に集落にあったと言われる、建造物の名称をご紹介しましょう。

 ここでは3つの建造物を、順に解説させて頂きます。

①高床式倉庫

 弥生時代の建造物1つ目は「高床式倉庫」です。

 高床式倉庫とは、床を地面より高い位置に設けた稲を保管する倉庫のこと。

 床を高くする効能としては、風通しをよくすることや、ネズミなどから稲を守る役割があったと言われています。そして匠の技と言えるポイントが、柱と床の間に「平らな板」が付けられているのです。この板により仮にネズミが柱を登ってきたとしても、足を引っ掛ける箇所がなく転げ落ちてしまうという仕組みです。

 これを1から自分で思いつくというのは、中々出来ることではありませんよね。

②物見櫓

 次に弥生時代の建造物2つ目として「物見櫓」をご紹介しましょう。

 物見櫓は、遠くを見渡すためにつくられた建物のこと。現代でいう、展望台をイメージして頂ければOKです。なぜなら、この時代は戦争黎明期です。敵襲がいつ来るかも分からない中で、物見櫓こそが、俊敏に対応するために欠かせないマストアイテムだったと言えるでしょう。

③祭殿

 最後に弥生時代の建造物3つ目「祭殿」です。

 この時代は差別や戦争のスタートだけでなく、現在に至るまで続く祭りのスタートとも言えますね。皆で騒いではしゃげる祭りは、どの時代の人も心躍りますよね。また次の項でご紹介する青銅器も祭具として使用され、見る人達の心を癒やしたことでしょう。

 そしてここまでご紹介してきた「高床式倉庫・物見櫓・祭殿」ともに、縄文時代の用途不明の「掘立柱建物」を元につくられたものではないかと私は考えます。そう考えれば人類の思考活動を垣間見ることができ、少しワクワクした気持ちになりませんか…?

弥生土器・鉄器・青銅器

 では最後に弥生時代の器具についてのお話です。

①文京区弥生で見つかった土器

 まず時代の名称にもなっている「弥生土器」についてです。

 弥生土器は、軟質素焼きで層が薄く、シンプルなデザインの土器のことです。縄文土器と比較して、形や装飾が簡素であることが特徴であり、一言でいえばシンプルです。

 名称の由来としては、東京都23区の1つ文京区弥生から発掘されたこともあり、字の名が付けられました。登呂遺跡も字の名が付けられていましたので、もしかすると今後あなたのお住まいから歴史的品が発掘されれば、時代に住所の名称が付けられるかもしれませんね。

②農具・武具の発達

 また鉄器が、弥生時代になり使用されるようになります。

 縄文時代までは石器の使用が主だったので、農具や武具ともに発達したと言えるでしょう。このことから、弥生時代が農耕・戦争ともに盛んだったことが垣間見れますね。

③権力象徴&祭具

 さらに青銅器も、この時代から使用されるようになりました。

 しかし青銅器は、柔弱な素材で農具や武具には不向きです。そのことから見て楽しむ工芸品として、権力象徴の証として使用されたり、前項でもご紹介した祭具として活用されたのでした。

最後に

 本日は「弥生の集落・建造物・器具」というお話、いかがでしたか?

 縄文時代と比較して、全ての項でグレードアップしていますよね。私も縄文文化から弥生文化に昇華したように、自分自身の能力・人格ともに日々少しずつ昇華していきたいなと強く感じました。是非ともあなたも先人に見習い、自己研鑽を習慣にしてみてはいかがですか…?

 本日はご精読ありがとうございました。

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