本日のテーマは「中国史書が綴る倭」というお話です。
日本史の勉強を始めると、最初に挫折してしまう人が多いのです。一体、なぜでしょう…?
その理由は、縄文・弥生時代がストーリーになっていないからです。古墳時代の後期になると、やっと1本に繋がるお話のオープニングが始まります。ですがそれ以前の日本は、まだ文字がありません。その事から、伝えたいことを後世に詳細に残すことが出来なかったのです。
ですが安心してください。この時代、お隣の中国には既に文字がありました。そして中国史書に、当時の日本についても綴られていたのです。本章では3つの中国史書から、弥生時代の日本について勉強していきましょう。
「漢書」地理志
まず1つ目の中国史書となる、「漢書」地理志を除いていきましょう。
この書籍は、紀元前1世紀・中国「漢」王朝の歴史書です。「漢書」が書籍の名称であり、「地理志」がその本の中の1つの章の名称です。
①倭と呼ぶ
そして「漢書」地理志によりますと、当時の日本は「倭」と呼ばれていたのだとか…。
冒頭でもお伝えした通り、日本にはまだ文字がないので「自分たちは倭の国民だ」と名乗っていた訳ではありません。ですが日本の別名を「倭」と認識している人は多く、そのルーツはこの中国史書にあったのですね。
②100国の小国分離
そして当時の倭は、まとまった1つの国ではなかったと言います。
書籍内に、こんな1節があります。「夫れ、楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」と…。現在の言葉に翻訳しますと「楽浪郡(現・北朝鮮)の海の彼方に、倭人という奴らが住んでいる。彼らは、百余国の国に分かれて生活しているようだ」という意味です。
この文章からも、稲作によってもたらされた穀物や領土の奪い合いとなる戦争が盛んだったことが垣間見れますね。
「後漢書」東夷伝
次に2つ目となる「後漢書」東夷伝という、書籍を開いてみましょう。
1世紀になると「漢」王朝の新たな歴史書が生まれます。なぜ「後漢」と呼ばれるのかと言えば、1度「新」王朝に王座を奪われたから…。そしてその後に再興したことから、名称が「漢」と「後漢」で異なるのですね。
こちらも歴史書の名称が「後漢書」であり、その中の1つの章の名称が「東夷伝」です。
①奴国
そして「後漢書」東夷伝には、具体的な国名が挙げられています。
その国の名は「奴国(なこく)」です。
奴国とは、北九州にあった百余国の中の1つの国名です。ではなぜ奴国だけが、中国史書に名前を綴られたのでしょう…?
②光武帝から金印
その理由は、光武帝から金印を授かっていたから…。
光武帝とは、後漢王朝の初代皇帝です。
1度王座を奪われた「新」王朝に対して、反政府軍を挙兵して、自らが兵を率いて前線に立ちました。そして連戦連勝を収め、遂には「漢」王朝の再興を成し遂げたのです。
そして西暦57年(1世紀)に、奴国の使者が光武帝に会いに来たと言います。そして光武帝は奴国を属国と認め、その証明となる金印を授けたのでした。その金印は、後に博多湾北部に位置する「志賀島(しかのしま)」で、実際に発見されています。これにより中国史書の信憑性が、証明されたということですね。
③漢委奴国王
そして金印には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と記されていたのだとか…。意味としては、漢王朝の属国・奴国の王という意味です。ではなぜ奴国の王は、自ら属国になることを願い出たのでしょう…?
その理由は、現在の一流企業や有名大学に在籍したいという気持ちと同じです。自分には権威や実力がなかったとしても、強大な組織名がバックボーンにあれば、自分を大きく見せることが可能ですよね。もちろん一定の力がなければ、これらの権威名すら授けられません。ですがそのラインに力が達すれば、実力以上に自分を周りにアピールできるのです。
だからこそ奴国は、倭のその他の国々との勢力争いを有利にするために、後漢王朝という権威の力を借りて他国を威嚇したかったのでしょう。その力を得られるのなら、後漢王朝への貢物など安いものです。
「魏志」倭人伝
では最後の中国史書として、「魏志」倭人伝を除いていきましょう。
この歴史書の名は実は「魏志」ではなく、3世紀・三国時代の歴史書「三国志」です。あくまで「魏志」とは、その1章の名称でしかないのですね。そこの数ページに日本のことが記されており、それを我々日本人が「倭人伝」と勝手に呼んでいるということ。
①邪馬台国
そして遂に、弥生時代の花形「邪馬台国」の登場です。
邪馬台国は、倭の大乱に勝ち残り、30カ国以上を支配した大きな国と言われています。邪馬台国については、1つの記事としてじっくり深掘りしていきたいと思います。ですのでもし良ければ、次回記事もご閲覧して頂けると嬉しいです。
②卑弥呼
ですが1点だけ、邪馬台国の女王の名だけご紹介させてください。
その名は「卑弥呼」です。
きっと、誰もが1度は耳にしたことがあるでしょう。彼女は謎が多い人物ですが、とてつもない権力を有していたと言います。それを現す事象として卑弥呼の墓には、当時の奴隷を生きたまま一緒に埋めていたというくらいです。それだけ稲作がもたらした身分の差、とどのつまりヒエラルキーの価値観が、日本に浸透していたのでしょう。
最後に
本日は「中国史書が綴る倭」というお話、いかがでしたか?
日本に文字がなかったことから、詳細・正確に歴史が伝播されている訳ではありません。ですがお隣中国のおかげで、ぼんやりではありますが当時を垣間見ることが出来ています。
この事実を見て、私の主観ではやはり文字とは偉大な発明品だなとつくづく感じました。是非とも皆さんも、文字・文章についての勉強をしてみてください。全ての仕事・学問・趣味の基盤であり、文章力が高まれば、あらゆることでの成長スピードが飛躍します。有限な人生の時間なので、少しでも広い世界を体験するために文字を勉強しましょう。
本日はご精読ありがとうございました。
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