本日のテーマは「古墳時代・古墳文化の到来」というお話です。
本記事から複数回にわたり、久々に日本史のお話をさせて頂きます。歴史を学ぶことは「視野を広げる」・「他人の失敗から学ぶ」など様々な効能を、私たちにもたらします。だからこそ「過去に興味がないんだよね…」と投げ捨てず、楽しく前向きに知る姿勢をオススメしたいなと感じます。
そして前回・日本史コーナーでは、原始の「旧石器・縄文・弥生」という3つの時代のお話でした。今回からは古代の「古墳・飛鳥・奈良・平安」と、少し長丁場のお話に突入しようかと思います。そしてそのトップを飾るのは古墳時代であり、200年後半~592年(3世紀後半~6世紀後半)までの日本時代区分です。
古墳とは
まず古墳時代の名称由来は、古墳文化が到来したことですね。
「えっ…?古墳って何…?」と、感じた方もいるかもしれません。そこでまず、古墳について前提のお話から入っていきます。
①大王・豪族の巨大な墓
古墳とは、土を高く盛ったお墓のことです。
このお墓は大王や豪族など、当時の権力者のお墓でした。そして何より驚愕するポイントが、その巨大なスケールにあります。その大きさは1つの公園、いやそれ以上のスケールです。なので地上から全体像を確認することは困難であり、真上から見た航空写真でなければ、全体像を認識できないのです。
②3世紀後半に大和中心に設計
では古墳はいつ頃の時代、日本にその姿を現したのでしょうか…?
それは200年代後半(3世紀後半)であり、まさに古墳時代のスタートとリンクします。当時の日本の大和(現在の奈良県)を中心に多く設計され始め、この時代を「古墳時代」と呼称するトリガーになったのですね。
ただ後の歴史と違い、まだこの時代は文字で正確な情報が残っておりません。ですので弥生から古墳の切り替えの時期は、200年代後半と曖昧な記述になっているのです。
③7世紀後半に火葬普及で衰退
では話を、古墳文化のお話に戻します。
古墳は600年代後半(7世紀後半)の飛鳥時代後期になると、ほとんど設計の跡が見られなくなったのだとか…。その背景としては、火葬文化が普及したからだと言われます。そして変化は徐々に起こるものであり、完全に古墳築造がなくなる以前の100年前(592年・6世紀後半)には、古墳時代は幕を閉じたのですね。
大仙古墳
では次に有名な古墳のご紹介です。
何と言っても、真っ先に名前が挙がるのは「大仙古墳」でしょう。
①大阪府堺市大仙町の古墳
大仙古墳は、大阪府堺市大仙町にある古墳です。
名称由来は大仙町という住所からとられ、設計時期は5世紀(400年代)の前期~中期あたりだと言われています。
時期の振れ幅があるのは、古墳時代スタートの際と同じ理由ですね。あくまで文字で情報が残っているわけではなく、考古学の見解により年代を特定しているのに過ぎないということです。
②世界最大級の古墳
そして大仙古墳の凄さといえば、そのスケールでしょう。
この古墳は世界最大級の古墳と言われており、その大きさは「縦486m・横30数m・外堀周囲3km」と、巨大な森そのものです。だからこそ平地にいる状態で、肉眼で全体像が確認できないのですね。
③堺市役所・高層館21階の展望ロビー
ですが航空写真以外にも、全体像を確認する裏技があるのだとか…。
それは「堺市役所・高層館21階の展望ロビー」に登ることです。
そこから見える景色は、なんと大仙古墳の全体像をも見渡せる。是非とも興味・関心のある方は、1度足を運んでみてはいかがでしょう。今から1600年も前の昔に、人類が築造したのだと考えると、感慨深いものがありますよ。
④仁徳天皇の墓地
あと最後に、絶対に言い忘れてはいけない内容がございます。それは「この大仙古墳は、誰のお墓だったのか…?」というお話です。このスケールですから、きっとヒエラルキーの頂点に達している人に違いありません。
そう、その人物は「仁徳天皇の墓地」となります。
もう少し正確に伝えるのであれば、この仁徳天皇という名称は後に付けられた名前です。当時の大和朝廷トップは、天皇と呼ばれておらず、大王という地位の名称だったのですね。後に天皇名が付けられたと言うことになります。
⑤宮内庁管轄で許可降りない
そして仁徳天皇は、皇族の人物ですよね…?
そのことから大仙古墳は、皇室・天皇に関わる業務行う「宮内庁の管轄」です。
歴史を明らかにしようとする学者たちは、古墳を調査したくしょうがないことでしょう。しかし宮内庁が、中々許可を出してくれないのだとか…。これにより実際は、まだ不明瞭なことが多いのも現実です。きっと天皇の墓を調査するのは、畏れ多いという理由が込められているのだと思います。
獲加多支鹵大王・鉄剣出土の古墳2選
では別の2つの古墳をここからはご紹介します。なんと、その2つの古墳には共通項があるのだとか…。その共通項とは「獲加多支鹵大王の鉄剣が出土」したことです。
①稲荷山古墳&江田船山古墳
この鉄剣が出土した古墳は「稲荷山古墳」と「江田船山古墳」です。
これらの所在地を覗き込むと「稲荷山古墳は埼玉県行田市」に「江田船山古墳は熊本県和水町」に位置します。築造時期に関しても近く「稲荷山古墳は400年代後半(5世紀後半)」、「江田船山古墳は400年代後半~500年代前半(5世紀後半~6世紀前半)」です。
②関東~九州の広範囲支配
これが何を示しているのか、皆さんはお分かりですか…?
そう、これは大和朝廷による「関東から九州の広範囲支配」を示唆するものなのです。
大王は現在の天皇であり、大和朝廷は現在の日本国家のようなものですよね。そしてその長となる獲加多支鹵大王(天皇名・雄略天皇)の名が刻まれた鉄剣が、埼玉(関東)と熊本(九州)という遠く離れた古墳から、近い時期に見つかっている。
このファクトを深堀りすると、大和朝廷がもう関東まで支配していた証と言える。1つ前の時代・弥生時代の邪馬台国では、まだ九州のみの支配か、九州から大和(奈良)までの支配かのどちらかと言われています。それを遥かに凌ぎ、古墳時代には国家が更に大きくなったということです。
埴輪
では最後に余談で「埴輪」についてもお話しましょう。
①兵士・馬・巫女・家などの焼き物
埴輪とは、土で出来た焼き物のことです。
その形式は様々であり「兵士・馬・巫女・家」など、多種多様だったそう…。埴輪は何のためにつくられたのかという理由は、まだ不明瞭であることも事実です。これは縄文時代の土偶と類似しますね。
②奴隷代替説
縄文時代の土偶の存在で1番有力な説は「女性崇拝説」でした。これは「女性が子供を産むことができる」という神秘的な力を崇拝して、土偶でそれを表現したという仮説です。では古墳時代の埴輪は、どのような目的で作られたという説が有力なのでしょう…?
1番有力な仮説として「奴隷代替説」が挙げられます。
弥生時代の「邪馬台国の長・卑弥呼」が逝去した際に、多くの奴隷が一緒に生き埋めにされたと言います。ですがこの時代は「さすがに可愛そうではないか…」と、世の権力者が慈愛の気持ちを持ち「奴隷の代わりに、埴輪を使用してはどうか…」と考えた訳ですね。
実際にこの説が当たっているか否かは、その時代の人にしか分かりません。ですが埴輪は古墳の周りに置かれていたので、ここから察するにこの説の信憑性は高いのではないでしょうか…。
最後に
本日は「古墳時代・古墳文化の到来」というお話、いかがでしたか?
このようなスケールの大きいお墓を、1600年前の人類が築造した。このファクトと触れ合うだけで、感慨深い気持ちが強まりますね。そして弥生時代と比較して国の規模が大きくなっていくことも、進捗を疑似体験で感じ楽しめられるのではないでしょうか…。
この文明の進捗のように、私たちも人生の中で知識習得・スキルアップを目指して、新たしい景色を見つけにいく。これ程に楽しくて尊い人生の暇つぶしはないと、個人的には感じます。もちろん暇つぶしの内容、つまり主観には答えがないものです。ただ個人的に好きな主観は、お金・神様・能力を崇拝し暇を潰すのではなく、冒険のワクワクに暇を潰す人が大好きです。
本日はご精読ありがとうございました。
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