古墳時代の「朝鮮半島」

歴史

 本日のテーマは「古墳時代の朝鮮半島」というお話です。

 古墳時代の倭(日本)では弥生時代以上に、海外との関わりが歴史として記されています。そして切っても切り離せない国といえば、海を隔てた隣国・朝鮮半島ですよね。

 本記事では、この時代の倭と朝鮮半島との関係性を、当時の国名やストーリーとともにご紹介していきます。是非とも、現在の私たちの性(本能)と照らし合わせながら、学んでみてくださいね。

朝鮮半島4カ国

 まずは「朝鮮半島4カ国」についてです。

 朝鮮半島といえば、現在では韓国・北朝鮮という国が連なっています。ですが当時は2カ国よりさらに多い4カ国が、この領土に集結していたのです。

①高句麗・新羅・加羅・百済

 その4カ国とは「高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・加羅(から)・百済(くだら)」です。

 高句麗・新羅と倭の関係性は悪く、敵対関係にあったと言います。それに対して加羅と百済は、当時の味方国でした。正確にいえば加羅は倭が支配していた国であり、現在の言葉でいうと植民地という状態ですね。百済とは上下関係なく、対等な同盟国だったと言います。

②朝鮮半島の古代地理

 ではこれらの国は、現在のどこの地理上に位置したのでしょう…?

 古代地理では「高句麗が朝鮮半島北部」・「新羅が朝鮮半島東部」・「加羅が朝鮮半島南部」・「百済が朝鮮半島西部」です。う少し詳しくお話をすると、高句麗は非常に大きな国でした。その領土は朝鮮半島に留まらず、中国東北部(満州)の南部も支配領域としていたそうです。

 この功績は次の項でお話する「好太王」という人物が関与しているのですが、そのお話はもうしばらくだけお待ちください。

③腰から100歳

 お話を国名や地理に戻します。これらの国には覚えやすい、語呂合わせが存在するのです。

 それが「腰から100歳」という言葉です。

 「えっ?よく意味が分からないけど…?」と感じた方も多いでしょう。確かに語呂合わせを聞いただけでは、理解が難しいですよね。

 語呂合わせの解説をすると、高句麗と新羅の頭文字となる「こ」&「し」が、腰というボキャブラリーに当たります。加羅はそのまま「から」と読み、百済の読み方を「ひゃくさい」と変えてと読めば、上記の「腰から100歳」になりませんか…?

 ちょうど北に位置する高句麗から時計回りで覚えると、暗記しやすいでしょう。

争いの歴史

 次に倭と朝鮮半島4カ国の「争いの歴史」を覗いてみます。

①好太王の碑

 まず倭と高句麗の関係性を示す、手掛かりとして「好太王の碑」をご紹介しましょう。

 好太王(こうたいおう)とは、4世紀後半の高句麗の王のことです。

 彼の力で高句麗の領土は朝鮮半島に留まらず、中国東北部の南部(満州)も支配したと言われます。国土を広げた功績から「広開土王」という、崇拝の呼び名も出来ている程です。

 そして権力者というものは、日本の古墳もそうですが何か生きた証を残すものです。これが高句麗では、石碑として残されたのですね。この好太王の功績が記された石碑を「好太王の碑」と呼び、縦6mと非常に大きな石碑だったのだとか…。

 当時の高句麗の都市「丸都(がんと)」に石碑はあり、現在の中国地域に位置しています。

②倭と高句麗の交戦

 そして石碑に記された内容から、倭と高句麗の交戦があったことを知ることができます。

 391年(4世紀)に交戦ありと記述されており、ちょうど大和朝廷が「中部から九州」を統一した頃ですね。この文章によると鉄資源や先進技術の獲得を求めた倭が、それを求めて高句麗に攻めてきたのだそう…。しかし高句麗の好太王に、倭は返り討ちにされて帰っていったという、すこし格好の悪いお話です。

 この事象から人間の欲望や争う性質は、今も昔も普遍的なものだと察知することが出来ますね。もう中部から九州まで統一して幸せを存分に味わっただろうに、未だに欲をかいて多くのものを求めて痛手を追う。もちろんその欲望・争いのおかげで、後に発展していくというファクトもあるのですが…。

 少しネガティブ感情になるお話ですが、とはいえ遺伝的性質で変えれないものです。だからこそこのファクトを受容する意識を持てば、今の心の穏やかさへと逆に転換できるのではないでしょうか…?

③磐井の乱

 次にご紹介する争いは「磐井の乱」です。

 磐井の乱とは、九州の豪族「筑紫磐井(ちくしのいわい)」と新羅が手を組み、朝廷に対して起こした大規模反乱のことです。

 この反乱は527年(6世紀)に起き、年表を広げれば古墳時代の終焉に近い年です。そして反乱制圧には、2年がかりの月日を要したと言います。

 元々新羅は倭から見れば敵の国であり、大和朝廷は朝鮮半島への出兵を企てていました。そして「近江毛野(おうみのけな)」という畿内の豪族を、九州に派遣したのです。筑紫磐井は九州の地方豪族ですから、朝廷から来た近江毛野の言うことを聞くしかなかった。ですがこの階級差から、きっと理不尽なことがあったのではないでしょうか。現代でいうところの、パワハラですね。

 彼は最終的に近江毛野の命令を無視し、新羅と手を組んだのです。そして理不尽さを感じていた大和朝廷に、新羅とともに反旗を翻したのですね。ですが倭も新羅へ出兵のため近江毛野を派遣したり、理不尽さをヒエラルキー下位に与えていたと考えれば、善・悪はこの世のどこを探してもないのだと改めて実感させられます。

④任那の滅亡

 最後に「任那(みまな)の滅亡」でお話を締めましょう。

 「任那…?、新しい言葉が出てきたけど…?」と感じたことでしょう。この任那とは「加羅」のことを指しています。加羅は倭が支配する国であり、現在でいう植民地でした。だからこそ倭側の呼び方として、勝手に任那と呼んだのです。

 ですが562年(6世紀)の、ほぼ古墳時代ラストスパートに事件は起こります。それは磐井の乱でも登場した敵国・新羅が、任那を滅ぼしてしまったのです。これにより倭は朝鮮半島における拠点を失い、戦争で不利な状況になったということですね。

最後に

 本日は「古墳時代の朝鮮半島」というお話、いかがでしたか…?

 現代でも日本と朝鮮半島の国は、歴史的事件による犬猿の仲の残り香が存在します。しかしその犬猿の仲をつくった近代よりずっと昔に、倭と朝鮮半島は争っていたのです。やはり歴史を知り、物事を達観する。これが利己的な行いを減らすために、重要なことかもしれませんね。

 本日はご精読ありがとうございました。

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