蘇我氏vs物部氏による「崇仏論争」

歴史

 本日のテーマは「蘇我氏vs物部氏による崇仏論争」というお話です。

 古墳後期となり、ついに日本にも大きなパラダイムシフトの波が押し寄せます。その巨大な波とは「仏教」という思想です。大陸から伝来したこの思想により、有力豪族の姓を持つ「蘇我氏」と「物部氏」が争いをすることになる。これが古墳時代のラストスパートです。

 ではどのように仏教が伝わり、お互いの豪族がどのように考え争いへと進んでいったのでしょうか…。本記事では「伝来」と「論争」という2枠で、その事実を顕にしていきましょう。

漢字&仏教の伝来

 まずは「漢字&仏教の伝来」です。

①5世紀に倭へ文字が伝わる

 仏教が伝わる100年程前の5世紀に、まず倭に文字が伝わります。

 弥生時代・古墳時代の倭について学んできた人はお気づきでしょうが、中国の歴史書が多く登場しますよね…。そして中国史書を基に、日本の歴史を読み解いていました。このファクトは倭にはまだ文字がなく、歴史を残す術がなかったという根拠です。

 ですが遂に漢字という文字が伝わり、仏教という概念を伝来するための下地が作られたのですね。

②仏教伝来の2説「538年説or552年説」

 そんな仏教伝来ですが、伝わった西暦で2つの説があります。

 その2説が「538年説」「552年説」です。

 現段階でどちらの説が有力かと言えば、前者の538年説と言われています。その理由としては、552年説が日本書紀に記された情報だからというものです。日本書紀の内容に対して現在は、疑いの眼差しが向けられているそうです。だからこそ消去法で、538年説を有力だと捉えているのですね。 

③ご参拝という語呂合わせ

 そして538年の仏教伝来を覚えやすくするための、語呂合わせを最後にご紹介しましょう。

 それは「ご参拝(538)」です。このように意味を持つ語彙と結びつけることで、数字というデータが覚えやすくなったのではないでしょうか。物事は関連付けて暗記していきましょう。

④百済・聖明王

 ではこの章の最後に、倭に仏教公伝を果たした人物のご紹介です。

 その名は「百済の聖明王(せいめいおう)」という人物です。

 紀元前5世紀のインドで釈迦によって生まれた仏教は、1世紀になり中国(後漢王朝)に伝来されます。倭では、北九州の一国・奴国が力を手にしていた時期ですね。そして4世紀に、朝鮮半島の一国・百済に仏教が伝わる。この時期の倭は高句麗・好太王と応戦していた時期とリンクします。

 そしてそこから約150年後の6世紀(538年)に、百済の聖明王から倭に仏教が伝来したという流れです。

崇仏論争

 では遂にメインのお話となる「崇仏論争」を覗いていきましょう。

①倭の政治に仏教を取り入れるか否か

 崇仏論争とは、倭の政治に仏教を取り入れるか否かという、意見対立の争いです。

 仏教とは思想であり、その1つの思想をみんなで信じることによって、人々は結ばれて協力することが可能です。また仏教はインド発祥ということもあり、カースト制度とともにセットで伝来したのです。とどのつまり、国をまとめ上げるのに適した思想だったと言える。

 あまりピンとこない方もいると思いますので、分かりやすく現代に置き換えてみましょう。現代では資本主義というお金を信仰する思想や、世間体というレールの生き方を信仰する思想がマジョリティのモノの見方ですね。これらの共通項・コモンセンスにより、人々は結ばれて社会秩序が形成されているのです。

②「崇仏派・蘇我氏」vs「廃仏派・物部氏」

 そして大臣の姓を持つ、有力豪族・蘇我氏は「仏教を倭の政治に取り入れるべきだ…」と主張します。それに対して大連の姓を持つ、有力豪族・物部氏は「倭は神道の国だ…」と主張したのです。

 神道とは日本発祥の宗教であり、八百万の神々を信仰する思想です。八百万(やおよろず)とは「非常に多くの、無数の」というボキャブラリーであり、倭は多神教の国だったということですね。この神々が、我々倭の国民の祖先だと当時は考えられていたのです。

 物部氏は祖先の八百万の神の怒りを招くことになると、仏教を政治に取り入れることに対して断固反対しました。それに対して蘇我氏は、周りの国(中国・朝鮮半島)が仏教を政治に取り入れて上手く国を統治できているというファクトを客観視していました。そして相手の良いところを盗もうと、変革的なモノの見方をしていたのでしょう。

 この仏教を取り入れようとする立場を「崇仏派」と呼び、神道を守るために仏教を排除しようとする立場を「廃物派」と呼称するのです。

③蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす

 崇仏論争のスタートは、蘇我稲目と物部尾輿という2者により起こります。ですがその戦いは長期戦となり、子供の代にも受け継がれることになるのです。

 これにより有名な「蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす」というファクトに繋がるのですね。時は587年のことであり、538年仏教伝来から約50年の月日が流れています。そして古墳時代の終了は592年ですから、ほぼラストスパートのお話となるのですね。

最後に

 本日は「蘇我氏vs物部氏による崇仏論争」というお話、いかがでしたか?

 積極的改革を唱えた蘇我氏と、現状維持を唱えた物部氏…。これは現代でも、同じような事象が跋扈していますよね。今から15年程前にスマホが登場した際、ガラケーにこだわっていた人と、スマホを誰よりも早く取り入れた人がいるでしょう。

 時代とは川の流れのようなもので必ず変化し、この世は万物流転です。もちろん最新に飛びつくことが必ずしも正義ではありませんし、それは新しいマジョリティへの迎合を意味している。ですが現状に固執する姿勢は視野を狭めてしまうことも、また否定できない事実ですよね。

 だからこそ「世界を知る・成長したい」という目的を持つのなら、蘇我氏の思想は良いお手本になるかもしれませんね。ただ勘違いしないでほしいポイントは、時代に思考停止しながら波に乗るだけでなく、自分の頭で考えて時代をつくるくらいの気概が重要だということです。

 本日はご精読ありがとうございました。

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