飛鳥時代の幕開け

歴史

 本日のテーマは「飛鳥時代の幕開け」というお話です。

 さぁ遂に歴史が明瞭に語られ始める、飛鳥時代の幕開けです。古墳時代の終焉期に漢字(文字)が伝来したこともあり、この時代から日本の歴史の解像度は高く受け継がれることになります。だからこそ歴史好き以外の人でもエピソードと共に知ることができ、楽しく学べるフェーズに入ってくるのではないでしょうか…。

 飛鳥時代という名称は、奈良県の飛鳥地方に都があったことが由来です。現在の市町村でいえば「奈良県明日香村」の位置にあたりますね。次の奈良時代に都(平城京)があったのは「奈良県奈良市」で奈良北部ですから、それよりも南下した奈良の中央に位置する市町村・明日香村に都があった時代となるのです。

 ではそんな飛鳥時代について、余すことなくお話を展開していきましょう。

推古朝・3人協力体制

 まず飛鳥時代の黎明期は「推古朝による3人の協力体制」で政治を執行していました。

 この3人の中には古墳時代にも活躍した人物「蘇我馬子」や、誰しもが1度は名前を聞いたことがあるであろう人物「聖徳太子」など、錚々たる面々がラインナップしていますね。ではそれぞれ3人をご紹介して参ります。

①推古天皇

 まず大和朝廷のトップの座には「推古天皇」が君臨しました。

 この推古天皇は、日本史上最初の女性天皇として有名ですね。当時の東アジアでも女性君主はまだ前例がなく、世界にも衝撃を与えたといいます。ちなみに推古天皇が君主の朝廷なので「推古朝」と呼称されるのです。

②蘇我馬子

 次に古墳時代に崇仏論争で活躍した「蘇我馬子」のご紹介です。

 推古朝での政治は独裁政治というよりも、3人での協力体制の政治でした。その3人のうちの1人に、全時代に活躍した蘇我馬子が君臨していたのですね。彼は崇仏論争で倭の未来を変えた男という実績もあり、後に権力を拡大させていきます。

③聖徳太子

 そして最後の1人に「聖徳太子」が君臨します。

 聖徳太子といえば「10人の話を同時に聞き、理解をした」という逸話で有名な人物ですよね。彼は推古天皇の「摂政」として、倭の政治を牽引したと言われます。それが証拠に「冠位十二階」・「憲法十七条」・「遣隋使」・「法隆寺の創建」など様々な政策を施行したのです。このお話はまた別記事で行う予定なので、楽しみにして頂けると嬉しいです。

 ちなみに摂政とは、天皇が女性・子供だった場合に代わりに政治を執り行う人のこと。トップはあくまで天皇ですが、政治実権を掌握していたのは摂政であり、聖徳太子の方が政治実権という意味合いでは上に立っていました。

 この摂政というワードは、平安時代の藤原氏「北家」のお話でも登場します。頭の片隅に留めておきながら、平安時代のお話も楽しみにしていてくださいね。

聖徳太子

 では次の項では「聖徳太子」にフォーカスして深堀りをしていきます。

①聖徳太子は実在しなかった説

 数々の偉業を成し遂げてきた聖徳太子ですが、本当のところは「実在しなかったのではないか…」という説があることを皆さんはご存知ですか…?もしそれがファクトなら、古代日本史の内容に震撼を大きく与えることでしょう。ではなぜそのような説が生まれたのでしょう…?

②日本書紀・法隆寺の史料の執筆時期

 その理由として、聖徳太子に関する確実な史料が存在しないことが挙げられます。

 聖徳太子について綴られた文献は「日本書紀」と「法隆寺の史料」の2書籍です。ですが日本書紀は現在、綴られた内容に懐疑的な見方がされていますよね。そのことにより、古墳時代の仏教公伝も「538年説」が有力となりました。

 また日本書紀が執筆された時期は奈良時代初期であり、法隆寺の史料も奈良時代中期のものと言われます。聖徳太子は飛鳥時代初期の人物ですから、どちらも彼の逝去後1世紀後の書物です。この綴られるまでの空白期間が、実在しなかった説の根拠の1つとなるのですね。

③皇太子の制度不成立

 また2つ目に聖徳太子の太子(皇太子の略)に、根拠が隠れています。

 この時代の倭には、まだ「皇太子」という制度が成立していないことが示唆されています。そうなれば当時は存在しないはずの制度の名を授かっている聖徳太子は、後に作られた架空の人物ではないか…という考えが生まれたのも頷けますよね。

④厩戸王

 では次に、聖徳太子は実在したというポジション側からのお話です。

 現在の中学歴史の授業では、聖徳太子を「厩戸王(うまやどのおう)」という名で覚えるそうです。これは近年の歴史研究により「聖徳太子という名称は、逝去後につけたられた称号である」というファクトが示唆され始めたことが発端です。とどのつまり厩戸王が、生存中に呼称されていた名称であるということですね。

 そうであるのなら「皇太子の制度不成立」は、聖徳太子がいなかった説の根拠としては弱くなります。さらに中国・隋王朝の「隋書」には倭に有力な人物がいるという記載があり、その人物が聖徳太子だと考えた方が歴史というパズルのピースが上手くはまるのですね。

 正確には聖徳太子ではなく厩戸王がいたという、少しの認識のずれで済んだといったところでしょうか…。

最後に

 本日は「飛鳥時代の幕開け」というお話、いかがでしたか…?

 やはり現代と離れた過去であるからこそ、不明瞭な要素は強くなりますね。ただ古墳時代以前と比べると、ファクトの解像度は確実に進捗していますよね。

 また不明瞭だからこそ、人は思考という営みに従事することが出来るのもまたファクト…。そのように考えれば、古代の歴史は思考力を鍛えるのに適した学問なのかもしれません。

 本日はご精読ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました