聖徳太子の政策・Part1

歴史

 本日のテーマは「聖徳太子の政策・Part1」というお話です。

 飛鳥時代の倭を先導した聖徳太子(厩戸王)という人物は、日本人で耳にしたことがない人はきっといないでしょう。では皆さんは名前のみでなく、具体的にどのような政策を施したのかをご存知ですか…?

 偉業を成し遂げたというファクトのみが独り歩きして、その中身の内容が置き去りになることは良くあることです。そんな彼が起こした政策について、本記事では持て余すことなくご紹介していきましょう。その政策は合計4つあり、2記事に分けてご紹介していきますね。

 本記事では前半2つの「冠位十二階」と「遣隋使」についてのお話です。

冠位十二階

 聖徳太子の政策1つ目は「冠位十二階」です。

 冠位十二階とは、氏(家系)に関係なく、実力や成果に応じて冠を授ける制度のこと。この制度は、それまでの既存制度であった「氏姓制度」の代替制度として活用されていきます。

①氏姓制度のおさらい

 では氏姓制度とは、一体どのような制度だったのでしょう…?

 おさらいとして、簡単に制度内容をご紹介しますね。詳しい内容は「大和朝廷と氏姓制度」の記事でお話をしているので、そちらを是非ともご閲覧ください。

 氏姓制度とは、氏に姓を与える制度のことです。

 氏とは「1つの豪族の家系」のことを指します。それに対して姓は「その氏に与える称号(ランク付け)」のことです。つまり「蘇我氏・物部氏・大伴氏・平群氏・中臣氏」などの家系を氏と呼称し、それらにランク付けされた称号を姓と呼んだのですね。

②実力・成果に応じて冠を授ける制度

 では冠位十二階のお話に戻りましょう。

 冠位十二階は、氏(家系)に関係なく、実力や成果に応じて冠を授ける制度でしたね。

 それ以前の倭では、ある氏(家系)に生まれれば、もうその家系には姓でランク付けされています。だからこそ本人の努力無関係に、家柄で身分が決まってしまったのです。

 ですが冠位十二階は出生に関係なく本人の実力が高く成果を出せば、それに応じてヒエラルキーを昇り上がることが可能です。まさに聖徳太子が血統主義から能力主義へと、価値観をパラダイムシフトしたということですね。

③「紫・青・赤・黄・白・黒」と「濃薄」

 冠位十二階により授けられる称号は、名前の通りに12段階に区分されます。

 そして称号を視覚で簡単に認識できるようにするため、色が違う冠を授けたのです。上の段位から順に「紫・青・赤・黄・白・黒」という並びで、1つの色に「濃薄の差異」を与えて12色で冠を構成します。ちなみに濃い色の方が上位で、薄い色が下位となる。また濃薄が分かりにくい白や黒は、薄い白の立ち位置に薄めのグレーがきて、薄い黒の立ち位置に濃いめのグレーがきたといいます。

 このように努力次第で自分の立ち位置を上げられるという仕組みは、豪族たちのモチベーションをUPさせ、倭の今後の発展に貢献していくことになるのです。

④蘇我氏の心情

 ですが全てのことに、光と影の側面があります。光が一層強くなればなるほど、影も比例して濃くなるものです。では冠位十二階により、影を背負った人物は誰なのでしょう…?

 それが蘇我氏です。蘇我氏の心情になって考えてみれば、氏姓制度の恩恵をフルで活用できていたのですから、新たな制度は面白くありませんよね。

 彼らは「臣(おみ)」という高い位の姓を与えられ、その中でも「大臣(おおおみ)」という臣の中でもトップの姓を与えられています。そこに冠位十二階という、自分の地位を脅かす制度が生まれたのですから、気が気じゃいられなかったことでしょう。

 このように時代が変われば得するものと損するものが入れ替わるという事象は、幾重にして起こってきたのです。

遣隋使

 次に聖徳太子の政策2つ目「遣隋使」について学んでいきます。

 遣隋使とは、中国・隋王朝に対して使者を派遣したことです。

①語呂合わせ「群れなしてゆく遣隋使」

 607年と608年の使者派遣が有名であり、合計3~5回の派遣を繰り返したといわれます。その中でも607年は有名で、語呂合わせの「群れな(607)してゆく遣隋使」という言葉も存在するくらいです。

 ではなぜ隋王朝に使者を派遣したのでしょう…。そこには聖徳太子の明確な意図が存在します。

②朝貢外交でなく対等外交を求めた

 その意図とは「朝貢外交でなく対等外交を求めた」ことです。

 朝貢外交とは、隋王朝の周りにいる属国が、隋王朝に貢物をしながら外交を進めることです。

 この時代の中国では「中華思想」という考えが主流であり、中華は世界の中心であり、中華の文化・思想は神聖なものという考えを持っていたそうです。だからこそ自分たちと属国では身分が違うと、無意識レベルで肌身に感じ取っていたのですね。

 そんな状況下で聖徳太子は、対等外交を隋王朝に打診しました。この時代の中国では対等な立場での外交は行っていなかったので、テロリスト集団がある1国に対等な関係を訴えるかのようなインパクトがあったそう…。

③小野妹子・煬帝

 この遣隋使の出来事に関与した人物として「小野妹子」・「煬帝」が挙げられます。

 小野妹子は、聖徳太子が隋王朝に送った使者です。607年と608年に派遣されたという記述が残っています。また現代の名前感覚で見てしまうと「女の人…?」と感じてしまいますが、紛れもなく正真正銘な男性です。時代が変われば、名前感覚も変わるという典型例かもしれませんね。

 煬帝は、隋王朝・第2代皇帝です。彼は610年に京杭大運河(けいこうだいうんが)という、北京と杭州を結ぶ総延長2500キロの大運河を完成させました。ここだけ見ると偉業を残した人物なのですが、その建造のために民衆を道具のにように使って暴挙を働いたそうです。

 他にも高句麗と戦争をして敗北してしまったという汚点もあり、隋王朝はわずか31年で幕を閉じてしまいました。そんな苦しい状況下だったからこそ、対等外交が認められたという倭の功績にも繋がったのですね。

④日出処の天子、書を日没する処の天子に致す

 最後に聖徳太子が煬帝に送った、手紙をご紹介します。

 その手紙の内容は「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」と綴られていたそうです。

 これは国の勢力を太陽に比喩した文章ですね。日出処とは、太陽が昇る東にある国ということを指しています。また日没する処とは、太陽が沈む西にある国ということです。そして国の勢力的にもこれから昇っていく倭が、これから沈みゆく隋王朝に手紙を出したぞと、挑発的で強気な内容となっているのです。

 この手紙に対して煬帝は激怒したといわれますが、京杭大運河建設の暴挙や高句麗戦争の敗北などもあり、対等外交の要求を認めざるを得なかった。力があるからといって暴君でいると、あとでしっぺ返しを食らってしまうという教訓が、ここから学べられるのではないでしょうか。

最後に

 本日は「聖徳太子の政策・Part1」というお話、いかがでしたか?

 今ある制度を変革してこれまでの当たり前を刷新したり、目上である王朝に強気に攻めたりなど、凡庸な人には成し遂げられないことを施行してきました。この聖徳太子の姿勢こそ私達も、日々のあらゆる局面で学ぶべきなのではないでしょうか…。

 やはり成長には変化が必要ですから、今までの当たり前と離れる勇気も必要です。他にもいつまでも上を拝めていたら、それを超えることは絶対にできません。是非ともあなたも普通という言葉や上下関係に翻弄されずに、自分に誇りをもって成長に励んでいきましょう。

 本日はご精読ありがとうございました。

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