乙巳の変「蘇我氏の横暴」

歴史

 本日のテーマは「乙巳の変・蘇我氏の横暴」というお話です。

 蘇我氏は大臣の姓を授かり、古墳後期から飛鳥初期にかけて権力を掌握していました。しかし万物流転という言葉が示すように、盛者もいつかは必ず衰退するものです。そして蘇我氏もこの原則から逃れることはできず、乙巳の変というクーデターにあってしまうのですね。

 では乙巳の変は、なぜ起こったのか…?その理由の1つとなる蘇我氏の落ち度について、本記事では覗いていきましょう。

蘇我氏の権力

 まずは「蘇我氏の権力」についてのお話です。

①きっかけは崇仏論争

 大和朝廷で1番の権力者は大王(後の天皇)ですが、蘇我氏は大王以上に力を持つようになったといわれます。その発端は別記事でもご紹介した「崇仏論争」であり、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことがきっかけですね。

 そして推古天皇・聖徳太子と肩を並べ、意見を主張できるヒエラルキーまで昇りつめたのです。

②蘇我蝦夷・蘇我入鹿

 そんな蘇我氏の権力に胡座をかき、暴挙を働いた人物が2人います。

 それが「蘇我蝦夷(そがのえみし)」と「蘇我入鹿(そがのいるか)」です。

 蝦夷は馬子の子供であり、入鹿は蝦夷の子供で馬子の孫にあたります。彼らは親の七光りのような存在で、馬子の偉業に乗っかり暴挙を遂行していくのですね。では一体、どのような暴挙内容なのでしょう…?次の項で持て余すことなくお伝えできればと思います。

蘇我氏の暴挙

 さぁ「蘇我氏の暴挙」のお話に移っていきましょう。

 大きく2つに分けて、ご紹介していきましょう。

①無認可で大臣継承

 暴挙内容の1つ目として「無認可で大臣継承」が挙げられます。

 臣という姓(ランク)の豪族の中でも、トップの豪族に与えられる称号を「大臣」といいます。その大臣の位には氏姓制度が始まって以来、蘇我氏の長が君臨していたのです。そして蘇我馬子から蘇我蝦夷に対して大臣の位は、大王の認可のもとに継承されたのです。

 ですが蘇我蝦夷は息子の蘇我入鹿に、大臣の称号を大王の無認可で勝手に継承してしまったのですね。いくら力を握っているとはいえ、大和朝廷のトップは大王である。この当時の常識を完全に無視し、好き勝手を働いたということです。

②謀反の罪を被せる

 また蘇我入鹿も父に負けず劣らず「謀反の罪を被せる」という暴挙を働きます。これが暴挙内容の2つ目です。

 聖徳太子(厩戸王)の息子に「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」という人物が存在するのですが、彼は血筋からも権力者だということが分かりますよね。そして権力者は別の権力者に嫌われることは世の常で、なぜなら自分自身の地位を揺るがす可能性を持っているからです。

 そこで蘇我入鹿は山背大兄王に、謀反の罪を被せたといいます。山背大兄王からすれば自分がやっていない罪をでっち上げられ、さらにその証拠も入鹿により作り上げて嵌めてきたのです。もしも彼の立場に自分が置かれたら、一体どのような心持ちでいられるでしょうか…?そして山背大兄王は、この騒動をトリガーとして自害したといわれます。

 これらの2つの暴挙により、蘇我氏は大王や他の豪族から反感を買っていた。この横暴さが、近い未来にくる蘇我氏滅亡へのクーデター「乙巳の変」の序章です。

最後に

 本日は「乙巳の変・蘇我氏の横暴」というお話、いかがでしたか?

 隋王朝の第2代皇帝・煬帝もそうですが、あまりの暴君として君臨すれば、地位を享受できる時代も短くなるのでしょう。長期的な目線を持てば、どんなに自分が高い能力・地位を保有していても、決して奢らず謙虚さを忘れない。それが何よりも大事なのではと、改めて知らされるお話ですね。

 次回記事では、乙巳の変の後半のお話に移っていきます。さぁ、いよいよクーデターの始まりです。一瞬たりとも目を離さぬよう、この時代を一緒に駆け抜けていきましょう。

 本日はご精読ありがとうございました。

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