本日のテーマは「大化の改新①政策改革」というお話です。
さぁいよいよ飛鳥時代での潮流が大きく変化を遂げる、大化の改新のお話がやってきました。正確にいえば、前記事でご紹介した「乙巳の変」も大化の改新の一部です。なのでもう既に始まってはいるのですが、あくまで乙巳の変は大化の改新の序章に過ぎません。ここから本当の意味で、時代がうねりをあげはじめるのですね。
では本記事では、大化の改新の前半部分となる「政策改革」についてのお話をしていきましょう。乙巳の変により邪魔な存在であった蘇我氏を滅ぼし、中央集権化のための政策改革を速やかに行う下地ができました。では具体的にどのような政策改革を行ったのでしょう…?
ここでは政策改革を2つに分けてご紹介します。
元号制定
まず政策改革・1つ目は「元号制定」です。
①紀年法の模倣
古代中国では「元号」という紀年法が存在しました。
紀年法(きねんほう)とは、時の流れを数え記録するための方法のことです。
元号以外の紀年法の代表例といえば「西暦」が挙げられますよね。そして中臣鎌足が中央集権化を目指したきっかけは遣唐使であり、その際に元号という紀年法の情報も一緒に伝播しました。だからこそ倭でも、元号という紀年法を模倣しようと考えた訳ですね。
②日本初の元号「大化」
そんな流れから中大兄皇子と中臣鎌足は、日本初の元号「大化」を生みだしました。またこの元号の名前を借り、乙巳の変から改新の詔までの一連政治改革を「大化の改新」と呼称することになったのです。
ちなみに日本初の元号といっていますが、実際には当時の国名は倭です。日本と呼称されるのはもう少し後のお話ですね。また現在は天皇1代につき元号1つというのが慣わしですが、当時は元号を頻繁に変えていたといいます。変えるトリガーとしては、良いことがあったり逆に不吉なことがあっても変えていたみたいですね。
大阪・難波宮に遷都
次に政策改革・2つ目は「大阪・難波宮に遷都」です。
①飛鳥に都が全時期にあった訳でない
飛鳥時代という名称の由来は、飛鳥(現在・奈良県明日香村)に都があったからです。ですが飛鳥時代の全ての時期に、この土地に都があった訳ではないのです。正確には前半の592年~645年までとなります。
②飛鳥(奈良)から難波宮(大阪)へ
なぜなら大化の改新の政策改革の一環として、飛鳥から大阪・難波宮(現在・大阪市中央区)に遷都が遂行されたからです。
遷都(せんと)とは、都を移すことをそう呼びます。
では「なぜわざわざ都を移したの…?」と思う方も、きっといるのではないでしょうか…。個人の引っ越しであっても相当な労力がかかるのに、国の中枢機関や中央都市を引っ越しするのであれば、それとは比較にならない労力がイメージできますよね。
③中国との距離を近づける
この遷都の理由としては、中国との距離を近づけるという目的があったそうです。
飛鳥地方は海が近くにないことから、中国との貿易にまず海まで出ていくという必要性が生じました。そうなのであれば最初から海の近くに都があれば、中国との距離は近づき、貿易もスムーズに進むと考えたのです。やはり当時の中国というのは大きな国家ですから、倭はメンターとして学びを吸収しようとしていた訳ですね。
最後に
本日は「大化の改新①政策改革」というお話、いかがでしたか?
ここにきて日本史はジェットコースターのように、物語が変貌を遂げていきます。そして変化が激しいということは、それだけ学べるポイントが多いというのもファクトですね。今回のお話から学びを抜き取るのであれば、相手の良いものを模倣するという姿勢や、実力のある個人・集団をメンターとするといった点ではないでしょうか。
もちろん良いもの・実力のある個人・集団を参考にすることは大事ですが、崇拝はしないように…。そうなってしまえば超えることは出来ませんから、あくまで現在の道しるべとして模倣をして、同じレベルまで達すれば新たな道しるべをまた参考にしていきましょう。
では次回記事では、いよいよ大化の改新のクライマックスとなる「改新の詔」についてのお話です。是非とも楽しみにしていてくださいね。
本日はご精読ありがとうございました。
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