倭の弱さがバレた「白村江の戦い」

歴史

 本日のテーマは「倭の弱さがバレた・白村江の戦い」というお話です。

 大化の改新で中央集権化(中央に権力が集中する政治体制)を目指し、中国に追いつけ追い越せで倭は政策を進めていました。しかしアゲインストの風が朝廷に吹くという、由々しき事態が起こってしまったのです。

 その事態とは「白村江(はくそんこう)の戦い」です。この戦いは、朝鮮半島西側の土地にある白村江で勃発した戦争です。ではこの戦いでは一体どこの国と争い、なぜ朝廷にとって逆風になってしまったのか…。本記事ではそんな戦争の概要を、持て余すことなくお伝えできれば良いなと思っています。

朝鮮半島の3国鼎立

 では「さっそく白村江の戦いについて…」とお話に入りたい気持ちで胸いっぱいなのですが、その前に前提知識のお話から始めましょう。

 その前提知識とは「朝鮮半島の3国が鼎立」していたというファクトです。

 ちなみ鼎立(ていりつ)とは「3つの勢力が互いに張り合って対立する」という意味のボキャブラリーですね。では対立していた3国について覗いていきます。

①高句麗・新羅・百済

 その3つの国とは「高句麗・新羅・百済」の3国です。

 古墳時代の記事でも、当時の朝鮮半島と倭との関連性をお話させて頂きましたね。その際にこの3国も出てきましたが、もちろん次の時代区分である飛鳥時代も、これらの国々は倭にガッツリと絡んできます。

百済は新羅・唐の連合軍により滅亡

 そんな3国ですが、この時代は朝鮮半島で覇権争いが盛んだったといいます。

 そんな争いの果てに倭の友好国「百済」は、滅亡へと追いやられてしまったのです。ではどこの国が追いやったのか…?

 その正体は「新羅・唐」の連合軍です。ただここで疑問符が浮かんだ方もいることでしょう。勘が鋭い方なら「なぜ中国の唐王朝が出てくるの…?」と、不思議な感覚に包まれたはず…。なぜなら朝鮮半島の戦いの話をしているのに、いきなり中国が出てきたからです。

唐王朝も高句麗・百済と敵対関係

 この真相は意外にシンプルであり、新羅が中国・唐王朝に援助依頼をかけました。

 とはいっても始めはその援助依頼に対して、唐王朝は首を横に振っていたそうです。それもそのはずで、第三者の争いにわざわざ巻き込まれたいと思う人・国はいませんよね。

 しかし、その後に唐王朝自体が朝鮮半島の高句麗や百済と敵対する関係性へと向かいました。そんな共通の敵という価値観の一致もあり、新羅に対して属国を支援するという形状をとったのでそして660年に新羅・唐の連合国により、百済は滅ぼされてしまったのですね。

白村江の戦い

 さぁここから待ちに待った「白村江の戦い」のお話が始まります。

 白村江の戦いとは「倭・百済遺民の連合軍」と「新羅・唐王朝の連合軍」との戦争のこと。

①遺民が再興を目指し倭に援助依頼

 百済という国は滅ぼされてしまいましたが、そこにはまだ生き残りの人(遺民)は残っていたそうです。そこで彼ら遺民は百済再興を目指して、友好国であった倭に援助の依頼をかけたのです。結果的に中大兄皇子は、朝鮮半島に外征を送っています。

②白村江での激突

 そして両連合軍は「白村江」で激突しました。

 白村江とは、百済(朝鮮半島)の西側にある海沿いの土地の名称です。

 この地に倭は2万7千人の援軍派遣を出し、唐もまた7千人の援軍派遣を出したといいます。そして地名が戦いにつけられ「白村江の戦い」と呼称されるのですね。ちなみに西暦にすると663年の出来事です。

③歴史上で見ても稀に見るほどの大敗

 ではこの戦争の終焉は、一体どんな一途を辿るのか…?

 その答えは「歴史上で見ても稀に見るほどの大敗」でした。

 つまり海外の国々に、倭の弱さがバレてしまったということです。それまでの唐や新羅は、倭をしっかりと警戒していました。なぜなら相手を舐めていると、足元を掬われる可能性があるからです。しかし実際に戦ってみたら弱かった。

 このファクトは、コミュニケーションにおいて相手を良く知らない時期には観察・警戒に注力しますが、話してみたら馬鹿だったという事象が露骨に見えた状態と同義ですね。

④太宰府の設置

 この状況に危機感を覚えた中大兄皇子は、国外進出を諦めて国内整備へと舵を切ります。

 具体的な政策としては「太宰府(だざいふ)」と「近江・大津宮」の2つです。

 太宰府とは、九州に設置された防備の役所です。新羅や唐による倭侵攻を喰い止めるために、玄関口となる九州に防御網となる襲撃対策用の役所を設置したのです。現在でいえば、自衛隊のような立ち位置の機関ですね。

⑤近江・大津宮へ遷都

 また都を「近江・大津宮」へと遷都しました。

 それまでの都「大阪・難波宮」は海岸沿いであり、この状況は海外から都に攻めるのが容易です。ですが海から少し離れた内陸「近江・大津宮」となれば、攻めるのにも時間がかかりますよね。その間にこちらも迎撃準備が可能となる。とどのつまり、新羅・唐から逃げたということですね。ちなみに大津宮は、現在の滋賀県大津市であり、琵琶湖の西側に位置した地域です。

⑥倭が侵攻されなかった理由

 ではなぜ倭は、この状況下から新羅や唐に侵攻されなかったのでしょう…?

 海外から見て弱いと分かりきった倭に対して、防備の役所や都が内陸に移った程度のファクターのみで、侵攻されなかった理由にはなりません。この答えには倭にとって運の良かった、海外の情勢が関係をしています。

⑦唐と新羅の対立

 その理由は「唐と新羅の対立」です。

 白村江の戦い後に唐・新羅の連合国は、もう1つの朝鮮半島の国・高句麗も滅ぼしてしまいました。これにより新羅はこのまま唐の属国で居続けるよりも、朝鮮半島全土を独立して支配したいという野望が強くなってしまったのです。そして今まで宗主国であった唐王朝に、服従から一変して牙を剥くことになったのです。

 そうなれば唐にとっても、朝鮮半島(新羅)との戦いに集中する必要性が生じます。そして倭に対して侵攻ではなく、融和政策をとるという流れに至ったのです。その際に白村江の戦いで捕虜となった倭の兵士も、本国へ返還されました。このような流れで倭は主権を維持したまま、唐を模倣した国家運営を進めていけるのです。

最後に

 本日は「倭の弱さがバレた・白村江の戦い」というお話、いかがでしたか?

 日本は歴史上で唯一、アジアで植民地にされていない国家です。このファクトが生み出される背景を覗くと、本記事の白村江の戦い後の唐・新羅の対立も然り、その後の歴史となるモンゴル艦隊を壊滅させた神風も然りと、多様な幸運に助けられたのですね。

 著書マイケル・サンデル教授の「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という書籍でも結論づけられている通り、この世の様々な現象は運が良かった悪かったに過ぎないのかもしれません。それはたまたま今日晴れた、雨が降ったの事象と同じように…。

 本日はご精読ありがとうございました。

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