本日のテーマは「中大兄皇子が天智天皇即位」というお話です。
中大兄皇子は乙巳の変により蘇我氏を滅ぼし、改新の詔で倭の未来への羅針盤を示しました。他にも日本初の元号・大化制定や大阪難波宮への遷都など、様々な施策を施します。とどのつまり白村江の戦い以前から、彼は倭の実験を握っていたのですね。
ですが白村江の戦いに敗れ、自分の地位が脅かされるのを恐れたのか、確固なものにしたかったのか、この敗戦というタイミングで彼は「天智天皇」として即位するのです。では本記事では、白村江の戦いに敗れた中大兄皇子が天智天皇に即位する流れを、即位前後で行った政策という事象に沿って覗いていきましょう。
敗戦からの政策
まずは「敗戦からの政策」です。
白村江の戦いで「倭・百済」vs「新羅・唐」の連合国同士で戦争が勃発しました。蓋を開けてみると倭の大敗に終わり、今まで明るみにでなかった倭の脆弱さが海外にバレてしまったのです。そこで中大兄皇子は、海外からの倭への侵攻を阻止しようと、2つの政策を施します。
①大宰府
敗戦からの政策・1つ目は「大宰府」の設置です。
大宰府は、九州地方に設置した防備の役所のこと。
九州地方は、海外の朝鮮半島や中国との玄関口です。だからこそ外国が倭を侵攻しようと動けば、真っ先に九州へ乗り込んでくる。そこで中大兄皇子は、この土地に防備の役所を設置したのですね。ちなみに大宰府を、私達にでも分かりやすく身近な制度・組織に例えると「自衛隊」が挙げられるでしょう。
現在の市町村では「福岡県・太宰府市」に、この防備の役所はありました。大宰府があったことが現在の市名にも繋がっていると考えると、感慨深いものがありますよね。ちなみに太宰府市と大宰府は、少し何かが違うのですが皆さんはお気づきになりますか…?
答えは「、」という記号が「大」という字の下にあるか否かです。大宰府という役所には「、」は付いていないのですが、太宰府市には「、」が付いています。軽い豆知識ですが、この違いをトリガーにして役所や市町村の名前を覚えてみてくださいね。情報は精緻化することによって、記憶に留まりやすくなるのですから…。
②近江・大津宮
敗戦からの政策・2つ目は「近江・大津宮」への遷都です。
中大兄皇子は大化の改新の際に、都を飛鳥地方から大阪・難波宮に遷都しましたよね。理由としては中国との貿易を盛んにするために都を海に近づけ、朝廷の国力を海外に追いつき追い越すが狙いがあったのです。
しかし白村江の戦いの敗北により、状況は一転してしまいました。今までは貿易国であり模倣する対象だった唐が、倭を侵攻してくる敵国へと変貌してしまったからです。このファクトにより中大兄皇子は、唐から逃げるようにして近江・大津宮に遷都を決行したのですね。
なぜなら海から少し離れた内陸ならば、侵攻には手間や時間がかかるでしょう。その与えられた時間で、倭自身が防備を固めることだって可能です。だからこそ彼は遷都を実行したのです。
646年の大化の改新で大阪・難波宮に遷都して、わずか21年後の667年に近江・大津宮に遷都をした。このドタバタ引っ越し劇により、中大兄皇子に対して国民の不満は溜まっていったといいます。
即位からの政策
では次に「即位からの政策」も覗いていきましょう。
近江・大津宮に遷都した中大兄皇子は、翌年668年にこの土地で「天智天皇」として即位を果たします。そして彼は新たな土地&地位で、2つの政策を施したのです。では一体、どのような政策なのでしょう…?
①近江令
即位からの政策・1つ目は「近江令」の制定です。
近江令とは、日本初の令制度のこと。
ここで少し復習となるのですが、大化の改新を行った元々の理由は何だったでしょう…?そう、その答えは中国・唐王朝の律令制という法律や、中央集権化体制の政治を模倣しようとしたことでしたよね。
そして遂に大化の改新(改新の詔)を発表した646年から、22年後の668年に倭史上初となる法律「近江令」が制定したのです。ただこの段階では令制度のみであり、律令制を目指していたわけなので不完全な状態なのですが…。ですので日本史上初となる律令制はもう少し後のお話となり、今後の記事で投稿していく予定です。楽しみにして頂けると嬉しいです。
②藤原の姓
即位からの政策・2つ目は「藤原の姓」を与えたことです。
この藤原の姓は、後の日本史(奈良・平安時代)で登場する「最大氏族・藤原氏」のことです。とどのつまり藤原氏の始祖は、この飛鳥時代に天智天皇に姓を授与する箇所から始まったということですね。では一体誰に、藤原の姓を与えたのでしょう…?
その回答は、大化の改新を同朋として推し進めた「中臣鎌足」です。とはいっても中臣鎌足の生前に、藤原の姓を授与したわけではありません。彼が逝去した際に、弔いやここまでの賛辞を込めて藤原の姓を与えたのですね。その後に彼は「中臣鎌足」を改め「藤原鎌足」と呼ばれるようになったのです。
最後に
本日は「中大兄皇子が天智天皇即位」というお話、いかがでしたか?
彼が天皇即位前後で行った政策を4つ覗いてきましたが、皆さんの目に彼はどう映ったでしょうか…?私は彼の良い面と悪い面が、どちらも垣間見える事象であったのだと感じます。
白村江の戦いに敗れ、九州に防備の役所・大宰府を設置したことや、逃げるように近江・大津宮に遷都したことは汚点ですよね。しかし日本初の法律・近江令を制定したり、功労者の中臣鎌足に弔い&賛辞を込めて藤原の姓を与えたのは、素晴らしい徳だと思います。
このように人間とはどんな権力者・有能な人物、一見凄そうに見える人であっても完璧ではありません。このような視野で人を見ていると、特定の人物を崇拝したり蔑んだりするマインドから離れることができるのではないでしょうか…。そしてそれは他人と比較しない自分、差別しない自分へと繋がるのですね。
本日はご精読ありがとうございました。
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