本日のテーマは「皇位争いの内乱・壬申の乱」というお話です。
672年に天智天皇が逝去すると、日本での古代最大ともいわれる朝廷内での内乱が勃発します。その名も「壬申の乱」です。この戦での主軸は2人おり、大海人皇子と大友皇子という人物です。
では彼らは一体どのような人物で、どんな経緯から内乱が起こったのでしょうか…?本記事では「大海人皇子と大友皇子」・「内乱勃発のストーリー」の2枠に分けて、持て余すことなくご紹介していきます。
大海人皇子と大友皇子
ではさっそく壬申の乱の主軸となる、2人の人物の詳細を掘っていきましょう。
①天智天皇の弟&息子
彼ら2人は「天智天皇の弟&息子」に当たる人物です。
大海人皇子が天智天皇の弟にあたり、彼ら2人は兄弟でした。さらに大友皇子は天智天皇の息子で、彼らは親子の関係にあったということですね。そして主軸となる2人の関係性といえば「叔父(大海人皇子)と甥(大友皇子)」となるのです。
そんな親戚同士で、天智天皇逝去から続く時代のうねりにより内乱が勃発した。このファクトは、亡き天智天皇はさぞ悲しんだことでしょう…。
②生前中の陰謀めいた遺言
そして話を天智天皇の生前中に戻します。
天智天皇が亡くなる2ヶ月前のこと、彼は弟である大海人皇子を病床に呼び出したといいます。そして「後のことはお前に任せる」と遺言を残したのです。しかし大海人皇子は、この言葉を素直に受け取りませんでした。なぜなら天智天皇は我が息子である大友皇子を寵愛しており、次期皇位を自分に譲るとは到底考えられなかったからです。
つまりこの遺言は陰謀が包含されており、このまま呑気に皇位継承を待っていれば「暗殺されてしまう」と身の危険を感じたのですね。
③大海人皇子は吉野へ出家
そして彼は持病を理由にして、自ら皇位継承を辞退したといいます。さらに吉野に出家して、近江大津宮の朝廷から逃げ出しました。
ちなみに吉野とは、現在の「奈良県吉野町」に位置する土地です。飛鳥時代の黎明期に宮があった「奈良県明日香村」のすぐそばの市町村となりますね。大海人皇子はその土地に、故郷の思い出からくる郷愁を感じていたのかもしれません。
④大友皇子が弘文天皇に即位
大海人皇子が出家したことから、必然的に大友皇子が皇位を継承することになります。
彼は「弘文天皇」と名を変え、天智天皇から引き継いだ中央集権化を達成しようと、大和朝廷による支配に尽力しようと動き出したのです。
内乱勃発のストーリー
ではここから本題の「内乱勃発のストーリー」を覗いていきましょう。
大海人皇子は吉野へ出家して、大友皇子は近江で皇位継承をした。この結論を聞けば、弘文天皇の時代が始まると誰もが思うことでしょう。しかし、そう単純に時の成り行きは進まなかったのです。
①天智政権の独裁への不満
その理由は「天智政権の独裁への不満」が発端です。
民衆は、天智天皇が生前におこなった数々の政策に対して不満を募らせていたのですね。
例えば「改新の詔による豪族勢力の削減政策」では、それまで存在した幾人かの有力豪族たちから力を奪いました。彼のビジョンとしては、中央集権化を目指して権力を皇族(中央)に集めたい。それ以前の大王を中心とする有力豪族たちの連合政権は、相反する考え方なので排除したかったのです。
結果としては奏功したのですが、リターンあればリスクもある。そのリスクが不満という影が見えない箇所で、堆積の状態にあったということですね。
また「朝鮮半島出兵の失敗」という不満もファクターで、白村江の戦いの敗北により多くの兵が亡くなりました。そんな状況下でありながら、大阪・難波宮に遷都して間もない時期に近江・大津宮に強制遷都を遂行した。遷都といえば都の引っ越しですから、個人宅の引っ越しとは比較にならないスケールです。それだけ多くの人の時間・労力も必要となり、これらが大衆への不満に繋がったのでしょう。
②弘文政権は大きく動揺し挙兵
そんな状況下で皇位についた弘文政権は、大きく動揺したといいます。
天智政権では不満は募っていたものの、天智天皇の力により歯向かうことが出来なかった。しかし弘文天皇は、まだ若くて実績もありません。だからこそ大衆は、不満を全面的に吐露して弘文政権は大きく動揺したのですね。
この動揺した状況をチャンスとみた大海人皇子が、遂に挙兵を決心します。彼は美濃や伊勢の兵たちを続々と集め、戦いの準備を始めたのです。
③琵琶湖を挟むように侵攻し大津宮陥落
さて遂に、壬申の乱がスタートしました。
吉野にいる大海人皇子は知的に作戦を練り、琵琶湖の上下から挟むように侵攻しようと考えます。そして琵琶湖の西側に位置する「大津宮」を陥落させてようとしたのですね。美濃の兵には琵琶湖の北側から左回りで攻めさせ、伊勢の兵には琵琶湖の南側から右回りで攻めさせました。このようにして逃げ場がないよう、挟み撃ちにしたのです。
この作戦あってか1ヶ月の攻防の末に、大海人皇子は大津宮を陥落させることに成功しました。そして弘文天皇は自害をして、代わりに次の天皇として大海人皇子が「天武天皇」として即位したのです。
最後に
本日は「皇位争いの内乱・壬申の乱」というお話、いかがでしたか?
この話を聞いて「血縁関係で争うなんて、そんな悲しいことがあるんだな…」と感じた人もいるかもしれませんね。実際に、私も皆さんと同じような感情を抱きます。ですがこの感情は、あなたの自己洞察を深めるチャンスです。
ここで感情深堀りのデモンストレーションをするならば「血縁主義」という思想を持っているという証明ではないでしょうか…。それよりも「皇位主義」で上に立つことを美徳だと考えていれば、親戚はもちろん、親や兄弟であっても殺し合うということに良心の呵責を感じないはずです。実際に歴史を紐解けば、このようなファクトは日常茶飯事にあるのですから…。
自分の思想を知ることや、他人の思想を知ることで、悪意のない狂気(絶対的正義)で人を誹謗中傷することが減っていきます。歴史とは視野を広げる学問です。皆さんも自分の客観力を広げていき、心穏やかな毎日と、攻撃性のないコミュニケーションを手にしていきましょう。
本日はご精読ありがとうございました。
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