本日のテーマは「天武天皇と持統天皇」というお話です。
壬申の乱により弘文天皇(大友皇子)を打ち負かし、皇位を手にした大海人皇子は天武天皇へと即位をしました。しかし天武天皇は若くしてこの世を去ってしまい、その亡き後には奥さんであった女性が持統天皇として即位します。そんな彼ら彼女らは、日本史上にどのような影響を与えた人物なのでしょう…?
本記事ではお二人の情報を、持て余すことなくご紹介していこうと思います。
天武天皇
まずは「天武天皇」のお話からです。
①武力で皇位を奪った絶対君主
彼は全記事でもご紹介した通り、壬申の乱の勝利によって天皇へと即位しました。即ち武力で皇位を奪ったということであり、その力の前には諸豪族たちも服従せざるを得なかったのですね。まさに絶対君主の登場です。
②中央集権化加速という歴史の皮肉
そしてこの事象は、中央集権化を加速させるという歴史の皮肉を生み出します。
もともと天智天皇が中央集権化を目指し、君主制側のイデオロギーを強固とするために舵を切ったわけです。そのことから豪族勢力削減政策などを行い、それがトリガーとなり天智政権への不満は溜まっていました。
だからこそ息子の弘文天皇が即位したことにより、力が弱まった政権には不満が噴出して動揺したのですよね。その政権動揺のせいで、大海人皇子がチャンスだと目星をつけ、壬申の乱という大規模反乱を起こした。そして武力で皇位を強奪したからこそ、絶対君主の天武政権が生まれたのです。
そうなれば中央集権化(君主制側)への不満による政権動揺が、絶対君主をつくりあげ、その力により中央集権化(君主制側)を加速させることになった。これこそまさに、歴史の皮肉ではないでしょうか…。
③大和・飛鳥浄御原宮&飛鳥浄御原令
そして天武天皇は「大和・飛鳥浄御原宮」に遷都します。
この移転時期は壬申の乱の勝利の年と同じで、西暦672年のことです。もともと飛鳥地方は、飛鳥時代初期に朝廷があった場所です。それを天智天皇が「大阪・難波宮」や「近江・大津宮」に遷都した。そこから伝統的な場所に、朝廷を戻すといった意味も込められていたのでしょう。
さらに9年後の681年に「飛鳥浄御原令」という令制度も制定します。実際のところは天武天皇の生前中には、施行はされておらず制定だけです。制定したのは奥さんである持統天皇なのですが、法律を新たに作り出したのは紛れもなく天武天皇だったのですね。
④天皇号成立
その他にも天武天皇は「天皇号成立」を果たします。
現在にも続く日本の象徴である「天皇」という呼称は、飛鳥時代の天武天皇の時代が源泉なのです。その前の時代では「大王」と呼称されており、象徴の名称を変えるという巨大一大プロジェクトを行ったのですね。
「しかし、前の時代から天皇という名前は出てくるよ…?」と、疑問を感じたそこのあなたへ…。素晴らしい観察眼を持っていますね。その理由は以前の大王(君主)にも、後に天皇名が名付けられたというのが原因です。同じ概念でまとめたがる人間の性は、このような呼称名にも繁栄されているのですね。
⑤現人神思想
また「現人神思想」が始まったのも、この天武天皇の時期が原点です。
現人神思想とは、天皇を神格化する思想のこと。とどのつまり、天皇は人ではなく神であるという考え方ですね。まさに絶対君主だった天武天皇だからこそ、生み出したフィクションだと言えるでしょう。
この現人神思想は、なんと近代の昭和時代まで継続されます。第2次世界大戦に敗れた日本の昭和天皇が、翌年の1946年1月1日に「天皇人間宣言」を行いました。こんな昨今に近い時期まで、日本人が天皇を神だと崇めていて、その考えを生み出したのが天武天皇である。色々と感慨深いものがありますね。
持統天皇
次に「持統天皇」のお話に移りましょう。
絶対君主の天武天皇は若くして亡くなったため、中央集権化を加速はさせたのですが、やり残したことも多かったのだとか…。そんな彼の無念を、奥さんである女性・持統天皇が叶えていくというストーリーがここにはあります。まさに旦那への愛が源泉にあったのでしょう。
①日本初の都城制「藤原京」
具体的には、日本初の都城制「藤原京」を完成させました。
都城制とは、宮殿の周囲に都をつくることです。それまでの「大阪・難波宮」や「近江・大津宮」ともに宮殿はあったものの、周囲には都となる巨大な街はありませんでした。それを飛鳥浄御原宮の周囲に、藤原京という都を実現させたのです。
都城制が完成した年は694年であり、泣くよウグイス平安京のピッタリ100年前となります。この事象と数珠つなぎにすると、年号も記憶に残りやすくなりますね。
②中国・唐王朝の長安をモチーフ
この都城制というシステムは「中国・唐王朝の長安」をモチーフとしたものです。
中央集権化という制度も唐王朝からの模倣であるなら、都城制という街づくりも模倣しようと考えるのは必然でしょう。
ただ宮殿だけなら1つの建物を建築するだけなので、比較的に労力や時間は少なめに遂行できるでしょう。しかし都を作るとなれば、なかなか短期間に遂行できるものではありませんよね。そして天武天皇は若くして亡くなったのですから、この夢を実現できなかった。そんな無念を持統天皇が叶えたのですね。
③富本銭
最後に「富本銭」のお話をして締めましょう。
持統天皇は、日本最古の金属製の貨幣「富本銭」を鋳造しました。
もともと日本初の流通貨幣「和同開珎」が、日本最古の金属製貨幣と言われていました。しかし1998年に大量の富本銭が出土し、鋳造年代を特定したところ日本最古を更新したのです。
和同開珎が700年前半に対して、富本銭は680年代です。少しの差ではあるものの、日本最古の金属製貨幣「富本銭」という名声を手にしたことは、持統天皇にとっても誇らしいことでしょう。
最後に
本日は「天武天皇と持統天皇」というお話、いかがでしたか?
この2人のストーリーを覗き込むと、人間の利己的&利他的の2面性を感じ取ることができますよね。天武天皇が絶対君主として君臨したのは、利己的な行動とも言えるでしょう。しかし持統天皇が旦那の無念を晴らす行動は、利他的な行動以外のなにものでもありません。
このように人間という生物は、複数の特性が混ざり絡み合ったものです。日々接する人々も「この人はいい人だ」・「あいつは悪いやつだ」と決めつけず、多面的に深堀りして考えてみませんか…?すると善悪を主張しすぎない自分を形成することができ、日々の生活に彩りが増えると思います。
本日はご精読ありがとうございました。
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